【山梨県立美術館】特別展「テルマエ展」を見に行く
はじめに
この秋開館45周年を迎える山梨県立美術館では、特別展「テルマエ展 お風呂でつながる古代ローマと日本」(2023.9.9~11.5)が始まりました。
テルマエとは公共浴場のこと。ヤマザキマリ氏のコミック作品「テルマエ・ロマエ」により、テルマエは圧倒的に知れ渡りました。
本展は古代ローマの入浴文化やテルマエともに日本の入浴文化にも迫る展示です。「テルマエ・ロマエ」の主人公ルシウスも案内人として要所要所にパネルで登場します。また、展示は山梨会場を皮切りに、大分、東京、神戸と4ヵ所を巡回します。
テルマエ展 お風呂でつながる古代ローマと日本
テルマエ展では、古代ローマ人のお風呂文化を絵画、彫刻、考古資料で紹介するとともに、日本の入浴文化も資料により紹介されます。また、山梨展独自としては山梨の温泉文化に関する資料が展示されます。全150点以上の資料数の展示となります。
本展は撮影可能です。ただし、撮影できない資料や展示品も多々あります。撮影できない資料や展示品は写り込まないようしているため展示室の概観を示す画像があまり撮れておりません。
序章 テルマエ / 古代都市ローマと公共浴場
解説によれば、テルマエとは狭義には皇帝らによって建設された大規模浴場のこと、広義には古代ローマの公衆浴場全体を指すとのことです。
まず、テルマエについて概略が示されます。
4世紀のローマでは大規模な公共浴場が11、小規模なものは900を数えたといいます。しかし、大規模な浴場の運営には、水道の管理・維持に加え、大量の燃料と奴隷を必要としたため、古代ローマの風呂文化は中世には途絶えてしまいました。
冒頭展示されている鋭い視線を向ける大理石の胸像はローマ帝国の皇帝カラカラ帝(188年~217年)です。カラカラ帝はローマ史上に残る暴君の一人とも言われますが、属州にもローマの市民権を与えた人物です。また巨大な浴場を建設したことでも知られます。
ローマで最初にテルマエを作った人物は初代皇帝アウグストゥスの副臣であるアグリッパ(前63年~前12年)だと言われます。こちらは、よく見かけるデッサン用の石膏像による紹介です。
第1章 古代ローマ都市のくらし
まず、古代ローマの人々のくらしについて「庶民の日常」「娯楽」「饗宴」の観点から紹介しています。
1-1 庶民の日常
帝政初期のローマでは、ごく一部の特権階級と、大衆との格差は広がっていました。都市部に増加する下層民が住むのはインスラと呼ばれる大規模集合住宅で、水道もなければ台所や風呂の設備もありませんでした。
展示は、ポンペイから見つかったパン(レプリカ)です。この頃の典型的な形のパンだそうで、分けやすいように切れ目が入っています。パンは家庭で作られるほかパン屋が製造することが多かったとあります。
下記画像の右側ケース内は撮影はできませんが金貨、銀貨、銅貨が展示されています。また、左側のケースは当時の天秤です。
1-2 娯楽
皇帝たちは大衆の不満を解消するため、食糧と娯楽の提供という施策をおこないました。大衆の娯楽として戦車競走、剣闘士試合、演劇などの見世物が発達していたといいます。
こちらは煉瓦に表された演劇用の仮面です。当時の仮面は木や革製のため現存しません。この巻髪と髭は「白髪の老人」の仮面と考えられているそうです。
こちらは剣闘士の兜(レプリカ)が並んでいます。
左の兜は投網剣闘士と闘う追撃剣闘士用に特化された兜です。突起は少なく、目の部分は小さく開いています。追撃剣闘士は短剣と長方形の盾で武装したそうです。
右はトラキア人剣闘士の兜で頭部の飾りはグリフォン頭部を模っています。
続いて剣闘士の像はポンペイの家から2体一緒に出土したものです。
左腕に丸盾、右手に短剣はギリシャ風の重装備の剣闘士を表しています。
反対側の1体は兜や短剣は同じです。左側に四角い盾を持ち、脛あても左側のみの武装になっています。闘い方により兜や武装は特化されていたそうです。
1-3饗宴
富裕層は、客を招いて饗宴を開いていました。料理や給仕は奴隷の仕事でした。また、古代ローマの饗宴は市民の女性も参加できたことが古代ギリシャの女性は遊女のみの参加とは異なっているといいます。
並ぶフレスコ画の展示から古代ローマの饗宴の姿が見てとれます。フレスコ画とは漆喰を塗り、その漆喰が乾かないうちに顔料で絵を描きます。色彩は年月を経ても保たれます。一度描いたところは修正がきかないため難易度の高い画法です。
このフレスコ画は、ヘタイラと呼ばれる高級娼婦とその隣に酒器を掲げた男性が横たわっています。卓には銀器が並びます。後ろには給仕の女性がいます。
続いて、食品棚の様子です。当時の食材が分かります。魚(ヒメジ)やイカ、アスパラガスなどです。
こちらはイチジクの静物画です。イチジクは神々からの贈り物と見なされていたたといいます。鶏肉や葡萄も描かれています。
キューピッドたちが梯子を使い葡萄を収穫しています。葡萄は豊穣のシンボルであり酒や食材として利用されました。
断片ですが、2匹の魚の入った籠を持つ人物の姿です。古代ローマの食卓にはヒメジ、アナゴ、ウナギなどの魚介類が上がったといいます。
続いて食器や酒器の展示です。色ガラスを組み合わせてモザイクガラスの技法で作られたガラス器です。皿と盃がセットになっており、宴席向けのものと考えらます。
こちらは、緑色の釉薬をかけて焼いた光沢のある把手付きの陶器です。銀器はたいへん高価でしたので銀器を模して陶器にて作られたものといいます。
こちらは、ワインテイスティングの管です。薄い銀を管状に加工しています。ワインは水で割って飲む習慣だったようです。
リュトンと呼ばれるギリシャからローマへ伝えられた酒器で、リュトンは角の形をした容器に動物の顔と前足が装飾されたものとのこと。ガラス製は金属より安価で普及しました。
アンフォラという二つの把手を持つ容器です。アンフォラはさまざまな食品の貯蔵、運搬用に使われましたが、これはワイン輸送用と考えられます。
第2章 古代ローマの浴場
テルマエはジムのように運動をしたり、食事や音楽を楽しんだりする娯楽室があったり図書室などがあり、人々の交流の場、あるいはテーマパーク的な施設だったようです。
また、テルマエの入浴方法は複数の浴室廻る循環浴だったといいます。
はじめに冷浴で水風呂に入り、次に温浴室で体を慣らして熱い湯に入り、肌が柔らかくなったところでマッサージを受けるという流れです。
このような、古代ローマの浴場について「アスリートと水浴」「医療と健康」「女性たちの装い」「テルマエ建築と水道技術」の観点から紹介しています。
2-1 アスリートと水浴
テルマエのルーツのひとつに古代ギリシャの運動施設における水浴が挙げられます。ギリシャでは全裸に油を塗り運動したため運動後には水で体を洗い再び油を塗って肌を整えたといいます。古代ローマにも運動場の併設がみられるのはそうした流れをくむものと考えられます。
下記画像の右はストリギリス(肌かき器)です。ギリシャで汚れを落とすため用いていたものがローマにも受け継がれました。
左は青銅の輪に香油壺と皿と肌かき器3本がひとまとめにされています。
続いてカミソリがあります。ギリシャは髭を伸ばすのが習わしでしたが、帝政初期のローマでは剃るのが一般的でした。下記画像の左は骨と鉄でできたもので、右は青銅です。
緑色のガラス製の香油壺です。入浴後に体に塗るためのオイルやバームを入れていました。吊り下げる把手がついています。
こちらは、青銅製の細い香油津保です。
こちらは紫のガラス製の香油壺です。
豊穣のシンボルである葡萄の粒の形を表面に配していますガラス製で高度な技術が求められます。もう一方もガラス製ですが人の顔の形です。
ガラスに金箔を挟み込んだガラス棒「ゴールドバンドガラス」により作られたガラス瓶です。青や緑の透明ガラスと金箔ガラスが溶け合っうことで縞模様が作り出されています。
2-2 医療と健康
古代ローマの時代から入浴による健康維持や医療効果に注目されていました。温泉の意味で使われる「スパ」は「水による健康」という意味のラテン語に由来することから温泉が健康によいことも知られていました。
ニトローディの温泉では、治療神であるアポロや泉を守るニンフが祭られていました。
2-3 女性たちの装い
古代ギリシャの女性たちの入浴は自宅に限られていたのに対し、古代ローマでは女性もテルマエへ通うことが出来たといいます。
キトンと呼ばれるマントをまとった女性像です。足はサンダル履きです。ローマ人はキトンに該当するトゥニカをまとい身分の高い女性はその上からストラと呼ばれる長い衣をつけたといいます。化粧や肌を白くする白粉も普及していたとといます。
レキュトスとは古代ギリシャの香油瓶です。櫃が置かれた屋内にいる女性の姿が描かれています。この女性は帽子をかぶり手鏡を持っています。
富裕層の女性は金や宝石など高価な装身具を身に着けたといいます。国立西洋美術館の橋本貫志氏のコレクション(橋本コレクション)による指輪17点があります。橋本コレクションは870点に及ぶ装飾品のコレクションでそのうち9割が指輪だといいます。
ピンぼけ画像なのがたいへん残念ですが、金の中心にガーネット(柘榴石)の金製指輪です。橋本氏が最初に購入した指輪です。
こちらは橋本コレクションではありませんが《山猫の耳飾り》と呼ばれる耳飾りです。金にガーネット、エメラルド、真珠で彩られています。
2-4 テルマエ建築と水道技術
大規模なテルマエには用地と水道は必須でした。
こちらは水道のバルブです。大きいほうは青銅で出来ています。小さいほう(画像2枚目)は青銅の本体に鉛でハンダ付けされた跡があります。
メスライオンを模った吐水口です。ライオンの吐水口の始まりは紀元前6世紀の東ギリシャから広まっていったといいます。大浴場というとイメージするライオンのルーツです。
こちらは、テルマエの熱浴室を復元したスペースです。床下暖房で暖められていて、浴槽の湯温は40度を超えていたといいます。
カラカラ浴場の復元模型です。東京造形大学デザイン学科のゼミの学生12名による製作です。カラカラ浴場は前述のカラカラ帝により3世紀に建設された大規模なテルマエです。
第3章 テルマエと美術
テルマエは大衆が美術品を見る場でもあったといいます。
床はモザイクが敷かれ、大理石彫刻も皇帝や浴場の製作者や神々の像などが置かれたそうです。とくに愛と美を司るヴィーナス、キューピッド、三美神などは好まれた主題でした。
また、浴場のルーツでもあるアスリートの像やヘラクレスの像も好まれた主題でした。
第4章 日本の入浴文化
続いて日本の入浴文化です。のれんをくぐり進みます。ルシウスの顔パネルが「平たい顔族の入浴文化を紹介するぞ」と言っています。
4-1 入浴と信仰
日本における入浴は天然温泉と風呂といった人工的な施設に分けられます。
古くは『日本書紀』に天皇が巡幸して滞在する場として有馬温泉が登場しています。また、光明皇后が仏の啓示により風呂を建て千人の垢を洗い清めたという伝承があったり、行基や空海が開いたと伝わる温泉など入浴は仏教とともに汚れを洗い清める行為として広まったとされます。
室町時代末期に京都に湯屋が広まり、江戸時代には江戸の町に湯屋が広まったことで庶民にも入浴文化が広まったと考えられます。
こちらは、有馬温泉の温泉寺の由来や伝説を描いた絵巻物です。
《洗湯手引草》は江戸時代の湯屋の業務について記した往来物です。
《都名所図会》は京都の代表的な地誌のひとつです。巻之三には京都北東部の八瀬から薪炭材を担いで京都まで売りに来ていたと紹介されています。八瀬には7,8軒の窯風呂が建ち並んでいたといいます。
《上醍醐西谷湯屋復元模型》という湯屋の模型があります。醍醐寺の山上の西谷にあった風呂を復元模型にしたものです。浴室は蒸し風呂と推定されています。
湯釜の部分も再現されています。
4-2 戦国武将と温泉
甲斐の武将武田信玄は無敵の甲州軍団と恐れられましたが、信玄の隠し湯と呼ばれる温泉が県内各地にあるなど、温泉のイメージを持つ戦国武将です。「信玄の隠し湯」と伝わる温泉は下部温泉(身延町)、増冨ラジウム温泉(北杜市)、川浦温泉(山梨市三富)などがあります。
信玄公の隠し湯伝説のもとになったと考えられる朱印状があります。
恵林寺の持つ川浦(山梨市三富)の温泉建設費のために金品を募ること認めた許可状です。信玄公の龍の朱印が押されています。
文書の日付が永禄4年の第4回川中島合戦の4ヶ月前にあたることから、負傷兵士の温泉治療を目的にこの湯屋を造営したと解釈されていましたが、近年は恵林寺に温泉建設費の勧進を許可したものと考えられます。
4-3 江戸時代の入浴文化
日本で入浴が定着したのは江戸時代です。江戸の都市部を中心に湯屋(銭湯)が作られました。
初期の風呂は蒸し風呂でサウナに近いものと考えられます。その後少量の湯につかる半身浴となり、江戸時代後期に全身お湯につかる現代のような入浴法になったといいます。
医療が十分でなかった時代、湯治文化の定着も江戸時代で街道などの整備されたことが、湯治の広まりの要因となりました。
明治以降は、温泉を訪れるのは当時目的から観光目的に変わり、戦後は内風呂が普及したことで普段は家で風呂に入り、旅先で温泉に浸かるという観光目的の入浴スタイルになっていきました。
こちらは江戸時代後期の湯屋の模型です。男湯と女湯で入口が分かれてあり中には番台があります。
分かりにくいですが弓矢が立体看板としてあります。「弓射る」を「湯入る」に言葉を掛けたものです。
現代と異なるところとして、脱衣所から洗い場まで仕切りが無く続いていました。また洗い場の奥に背の低い出入口から入るとその奥に湯舟がありました。
全国の温泉番つけです。東西の最高位は草津温泉と有馬温泉です。行司として熱海、箱根、伊香保などいまも有名な温泉が並びます。
近代の入浴文化ということで、明治大正昭和のレトロな品があります。こちらは、ツムラ(津村順天堂)の夫人薬、中将湯の入浴剤「浴剤中将湯」を使った銭湯の看板です。
ケースの中には発売当初の花王石鹸(明治23年発売)があります。かけそば1杯1銭の時代に12銭といいますから桐の箱に入るほどの高級品です。
隣は、花王の固形シャンプーです。その奥は花王のフェザーシャンプーで界面活性剤配合粉末シャンプー(昭和30年発売)で当時人気を博したそうです
銭湯の桶と言えば銭湯に行かない人でもケロリンの広告が思い出されるでしょう様々な様式のケロリンの広告桶があります。
後列左は「女性の洗髪用」とあります。足が付いて桶の位置が高くなっています。その隣は「広口洗面器型」「初期型」と並びます。
前列は左より「限定版木桶」「東京型」「子供用」というラインナップです。
ミュージアムショップにケロリン桶は「関東風」「関西風」とあるのですが、筆者にはその区別が分かりませんでした。
山梨の温泉
山梨会場の展示として、山梨の温泉の展示があります。こちらは、山梨県立博物館の収蔵品で、おもに甲州文庫と呼ばれる郷土資料からのものです。撮影は一切できません。
山梨は温泉の多い県で、前述のように古くは「信玄の隠し湯」と呼ばれる温泉が県内各地にあります。また飛鳥時代に開かれた西山温泉(早川町)の慶雲館は一番古い温泉と言われています。
比較的新しい温泉としては1961年(昭和36年)、ぶどう畑より湧出し誕生した石和温泉は一気に石和を温泉観光の町に変え、昭和から平成にかけて団体旅行の温泉として大いに栄えました。
展示には甲斐国内の名所や名産品をめぐるすごろくがあります。甲府をふりだしに、富士山の初日の出が上りとなっています。名所には身延、金桜神社、屏風岩、酒折宮、猿橋、差出の磯、湯島の温泉などが、名物には、郡内絹、月の雫、塩山の松茸、境川の鮎、雨畑硯、枯露柿、甲斐駒など現代にも残るもの多くあります。
こちらは、江戸から甲州街道を経て甲府へ、さらに富士川を下って身延山に詣で、東海道を江戸方面に向う行程の名所・旧跡48場面を描いたものです。絵巻物であったものを屏風に仕立て直されています。
「甲府市を中心とせる甲斐大観」(1929年、昭和4年)は、甲府を北から南へ見た鳥瞰図に特徴があります。鳥瞰図で有名な金子常光の作です。また、甲府の沿革や特産品、各寺院や湯村温泉、昇仙峡といった観光地の解説が記されています。
富士身延鉄道(現在のJR身延線)の甲府開業の翌年の発行であることから、新たな観光需要を意識していることが伺われます。
山梨県立博物館のシンボル展「甲州の匠の源流 御嶽昇仙峡」(2023.5.27~6.26)でも展示された資料です。
最後に記念撮影用のルシウスのパネルスポットがあります。撮影時の小物としてケロリン桶も
おわりに
古代ローマの展示は入浴文化とともに、日本の入浴と温泉文化の歴史も概観できるという広範にわたる展示でした。
とくに古代ローマは入浴だけでなく、そうした背景にある生活にもふれる内容のためたいへん興味深く勉強になりました。
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