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約3年振りの京都旅行④-2「年を取ると解ってくる己の根源。思考を深めた一人旅」

(↑いかにも紋切り型noteっぽい題名つけてみたら気持ち悪い。性に合わない。反吐が出そうおえーゲろげろ)

2024.10.14 歩行距離11km

今回の京都旅行では、この世の人間を「村の人」と「街の人」に二分するとしたら、自分は完全に街の人なんだなと実感した。年を取ったせいか、人生を振り返って自己理解に励むことが多くなった。京都を出る14日は、田舎暮らしでもやもやしてきた事を言葉にまとめられる様になってきた。

僕が育ったのは首都圏のベッドタウン。私鉄が通り、駅前通りが真っすぐ伸び、その周りに商店や住宅地が広がるという、戦後にできた典型的な新しい町。町ができる前は雑木林や農地しかなかった様な土地だ。全く都会ではなく、むしろ東京30分圏内としては田舎なのだけれど、よそ者しかいない様な町。
そして僕は5棟あるマンション群の中で育った。壁を隔てて上下左右に違う世帯が敷き詰められている。小学校の登校班は、マンションの同じ階の生徒達で組まれる。学校から帰って来れば、マンションの敷地内にある雑木林や広場が家から徒歩0分の遊び場になる。高学年になったら、友達同士連れだって自転車で隣町へ買い物に行ったり、私鉄に乗って東京へ遊びに出かけたりした。同学年には貧しい家庭も少なかったので平和だったし、刺激が欲しければ簡単に東京に足を運べたし、不自由のない生活だった様に思う。

高校に上がると、電車で通学するようになった。毎日通学していて不思議だったのは、行き帰りで滅多に知り合いと会わないこと。小中学校の同級生達も皆同じ路線を使っているはずだし、知り合いのお母さんなんかもマンションに住み続けているはずなのに。
後になってから思うのは、あの町にもそれなりの人口がいて、鉄道の本数もあって、多少は匿名性があったんだろうな、と。

高校を出た後は札幌の大学へ進学し、首都圏とはまるで異なる土地にカルチャーショックを受けて見聞を広め、成長した。
大学を卒業した後は嫌々就職して、平日の東京と家畜としての生活に絶望しながら2年と少しを過ごした。農業にぼんやりと憧れ始めた。
その後は福島県に住んでみたり、自転車で日本一周してみたり、埼玉でくすぶったり、福岡県に住んでみたり、埼玉で楽しんだり、長野県で農業研修を受けたり、埼玉でまあまあ楽しんだり、大分と愛媛への移住を検討したり、東海道とカミーノ・デ・サンティアゴを歩いたりと、他者からは迷走に次ぐ迷走を重ねてきた様に映るかもしれない。しかし迷走が常ならば、最早それは迷ってはいないのではないか。

そして、長野県へ引っ越して来てからもうすぐ8年経つ。僕が住んだ県としては埼玉県の約22年に次ぎ2番目に長い。おめでとう。
ここでようやく冒頭に書いた村の人・街の人の話になるかなあ(ならないかも)。

今回、たったの3泊4日ではあるが京都を一人で旅して改めて感じたのは、京都の街は道路で分断されていないということ。僕は京都を訪れたら、徒歩と自転車と公共交通を使って街を満喫する。その中で、古都でありながらよくぞここまで道路を拡張しんしゃったねと感心する。御池通なんか高級感がありますよ。烏丸通は幹線ですわ。そんな、片側2車線+αある道路が造られていながら、街がそれらによって分断されていないのよ(烏丸通は若干分断疑惑ありだが)。人々は横断歩道を渡って街と街を移動している。僕も御池通を横断しようと信号待ちをしながら、「この広い道路を僕は違和感や不安なく渡って行くのか」といったことを感じた。そういえば、東京都を散歩している時も、上に首都高が通っているような道路を信号待ちして横断したなと思い出した。
改めてそんなことを感じるのも、田舎県の街の道路が完全に歩行者・自転車を舐めくさっているから。簡単に道路を横断できない作りになっている。浜松駅や盛岡駅に行った時は、「なんだここ?ぶち殺すぞ」と思った。県を代表する都市の玄関口が完全なる車社会。駅前広場から大きな道路を挟んで目の前に見える場所へ簡単に行けない。横断歩道がない。とても冷たい印象を受けたね。駅から歩いて街へ繰り出す人間など想定しておらんのだろう。鉄道に乗って駅へ来た人には車の迎えが来るのが車社会だからな(長野県に引っ越してから知った事実)。
そう、車社会は冷たいの。冷たすぎて人が歩けないから街が育たない。


昨日の日記に書いたが、僕は平安神宮の街にいる人々から幸せの様なものを吸収した。これと同じ様な経験を、休日の東京や、父の住む首都圏の集合住宅の部屋の中でもしてきた。
金曜日の夜から日曜日の昼にかけての東京には明るい空気が充満している。街行く人々の表情にゆとりがある。日本一の大都市の歩みが緩む時間。
父の住む首都圏の集合住宅では、休日の朝に草野球をして帰って来てから、昼間にゴロゴロしながらTBSラジオかニッポン放送をかけるのが至福の時。土日のラジオ番組は平日のものとは異なって殺伐さが少ない。それに、住宅街の中で人々が暮らしていることを感じる。自分がその空間と繋がっている事も。
僕が何故そういったことを好むのか、感じやすいのかというと、おそらく僕は根源的に、名前も知らない、あるいは顔も見たこともない様な人々の平和な生活と繋がっていたいのだと思う。そして彼等から幸せの様なものをお裾分けされたい。それが実現されやすいのが、僕にとっては道路で分断されていない街と集合住宅なのだろう。育った環境がそうだったから。

今は超絶車社会の信州に住んでいる。それに関して思う所が幾つかあり、その内の代表的な2点を挙げる。
まず、子供達が公園以外の屋外で大人抜きで遊んでいる姿をこの8年弱、ほぼ見たことがない。それはそうだろう。僕は、もしも息子がこの地で小学生になったとしたら、「表で遊んで来な」なんて心配で心配で言えない。いつ車に轢かれてもおかしくないから。車社会の郊外では「歩行者・自転車はいないもの」として車の運転が行われるから、危険極まりない。
次に、一軒家と車と道路が人々を分断し、従来より存在していた農山村的な閉鎖性を増長させていると感じる。一軒家という他者の生活音の聞こえにくい住処から車というプライベート空間に乗り込んで、職場やスーパーへ。箱から箱に乗り換えて点と点を結ぶだけの移動で、他者と交わり得る時間が非車社会と比較すると極めて短い。そして、土地を移動しない村の人が育んできた閉鎖性と車社会は親和性が高い。
でも、僕は街の人。多種多様な人々が歩き生活する姿を見ていたい。それによって得られるものが確実にある。

と考えながら、箱に乗って車社会へ戻って行く僕であった。



↑前編

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