井上章一・著「京都ぎらい」読書感想文
新書大賞2016に選ばれた井上章一・著「京都ぎらい」の感想文です。
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まず述べておきたいのは、私は京都が大好きであるという事と、しかしながら、この「京都が大好き」という一言は、本書を読むと無邪気に発せなくなるという事です。
どういう事かというと、著者は京都市で生まれ育っていますが、本書の中では自身を「京都人ではない」と断言しています。それどころか、京都人への敵愾心、恨みつらみが書き綴られています。
というのも、著者は京都市とはいっても洛外である嵯峨のご出身で、若い時分から洛中の人々に「嵯峨は洛外の田舎だ、京都ではない」等と散々こけにされてきたのです。
洛外・洛中という言葉を御存知ない方の為に大雑把に説明すると、洛外は都の外側、洛中こそがザ・京都であります。しかし、厳格な境界線が引かれている訳ではなく、京都市民でも人によってその範囲は微妙にずれる様です。ただ、豊臣秀吉が築いた御土居の内側が概ね洛中とされている様です。
著者の育った嵯峨はかなりの洛外です。観光地として有名な嵐山や太秦、伏見、清水寺も厳然たる洛外です。また、京都の中で最も新しい花街・祇園も鴨川の東にあるので洛外に当たります。
著者によると、洛中には「洛中こそが京都であり、そこに生まれ育った者こそが『京都人」である」という中華思想・選民思想が蔓延っているそうです。
このあたりの事情が、私がこの文章の冒頭で述べた「京都が大好きだと無邪気には言えない」という事に繋がります。
おそらく、私に限らず多くの部外者にとって、「京都」とは洛中に限らずにぼんやりと洛外も含んでいるからです。先に挙げた嵐山や祇園も「京都」の内に入ります。更に、大原や比叡山、お茶で有名な宇治等も「京都」の意識に含めてしまう人は多いでしょう。
ところが、私達部外者が、ほんまもんの京都人や著者の様な生粋の「洛外京都市民」に向かって「京都は街中に歴史あるお店や寺社が沢山あって、大原や嵯峨嵐山みたいに風光明媚な所もあって素敵ですね」等と言おうものなら、彼等の眉をピクリとさせてしまうかもしれません。要注意です。
著者は、本書について前書きで「京都をえがくほかの本とかさなるところは、ほとんどない。これまでの類書とはよほどちがった仕上がりになっている。そのことだけでも、この本には値打ちがある」と述べていますが、これは正にその通りかもしれません。
本書の中でも指摘されていますが、東京の出版社・マスコミがやたらと京都を礼賛するから、京都人の鼻は高く保たれてしまっているという一面がある様です。確かに、書店に行くと様々な雑誌や観光案内本で、季節毎に京都が特集されているのが目に留まります。
著者としては、それら出版物とはまるで逆の切り口の「京都本」を出す事で、世の均衡を正そうとしたのではないでしょうか。
本書では、かなり赤裸々に京都人のいやらしさ、そして著者自身の卑屈さ(それは現代教育と洛中京都人により育まれたと著者は述べている)が描かれています。この本を上梓するのには相当な勇気が要った事だろうと想像します。著者がそれまでに築いてきた京都での人間関係に、相当な影響を及ぼしそうな内容だと感じますし、「これを世に明かさずして死ねない」という覚悟が滲み出ています。
この感想文をお読みの方の楽しみを奪いたくないので、内容の詳しい説明は避けますが、本書には洛中に対する恨みつらみだけではなく、京都の坊主と花街の関係性や、京都から見た明治維新、天皇・皇居等についても、著者の深い教養に基づいた考察が記されています。この覚悟の書が気になる方(特に京都が好きな方)はご一読になる事をお勧め致します。
ちなみに、私は本書を読んだ後でも、ずっと「京都」は大好きなままです。ご安心下さい。