ひがみ根性をすてよ
われわれはあく迄も外界的の位置、身分、学識等をすっかり放れて、その場その場のうぶな赤子の心になって、
お互いに打ちとけて、それぞれ自己の本性を発揮すべきである。
すべての場合において、なんとなく言いたくなかったり、したくなかったりするような場合に、肉体心を出して、それを敢えてすることは明確に無理な言動である。肉体的には「あれは大した者でもあるまい」くらいに考えている場合でも、その人に対すると、なんとなく畏まるような遠慮な心持ちになるならば、それを敢えて裏切って、ぞんざいに振舞うにはおよばないのである。
すべて、ミロクの世になりきってしまう迄は、外界的の位置とか身分とかいうものはまだまだ不確実なものである。
この道の信仰にはいった者は、真に自分は生まれたての、はだか一貫の赤子であるという気持ちになって、一切のこれまでの先入主を払拭してしまって、超然と、本霊の命ずるままに突進すべきである。
すべて物ごとは、自己を中心にして考えるから偏るのである。広く、全世界を大局的に観るくせをつけねばならぬ。
自分のしていることはよく、他人のしていることは悪く、十人が十人まで考えがちのものであるが、これが非常な偏見である。全世界のものすべては皆それぞれに己の役割を演じているのであって、大きい神の御目から見たまえば、いずれを是、何れを非ともし難いのである。
要するに、皆それぞれに自分は自分らしく相応の仕事をしさえしたらよいのである。
外分から来る肉体心というものは、非常に不確かな間違いやすいものであるから、他人の言動などでも、決してこれを外的に観て、直ちに批判してしまってはならぬ。ちょっとしたことにも気をつかい「あれは自分にあてこすっているのだ」とか、やれ「あんあことを言って私をバカにしているんだ」などと、公平に考えれば何でもないことにまで気をもんで、自分一人で腹を立てたり、敵を作ったりしている場合が決して少なくない。自分の修業ひとつで、こんなことはいくらでも、いわゆる「見直し聞き直す」ことができる筈である。一番こまることは、なんでもかんでも直ぐ自分のことにしてしまって、ひとりで気をもむくせである。
人間というものは、決して目前の相手の感情をそこねるような言動を、故意に、大した理由なしに
するということはるものではない。
すべて、自己に何か弱点とか欠点とかがあると、常にそのことのみを気にかけているから、なんでもないことに気がひがんでくるのである。心に別にやましいことがないならば、いかなる人の前に出ても一向くよくよするはずはないのである。
余程、つね平生から考えていないと、われわれはややともすれば利己本位に走りやすく、他人のことばかりが目について、自分のことが一向わからぬことになりがちである。他人と自分とをくらべて何か少しでも、相手に自分より劣っている点があると、さァ、鬼の首でもとったように喜び、「ヘン、俺がやっぱりえらいワイ」という気に、知らず知らずなっており、自分がその人よりもいろいろな肝要な点において非常に劣っていることには、一向気がつかないという人達もよくあることである。
いく度もくり返していうことであるが、自分はえらいとも、また、えらくないとも、そんな考えは極力排除して、無邪気な赤児の気持ちでおる人が一番清くうるわしい。
どんな人でも、断じて、他の者の追従をゆるさぬという長所は持っているのであるから、各自は互いに
その長所を尊敬し合うて、夢にも他人を侮らぬようにせねばならぬ。
『信仰覚書』第二巻、ひがみ根性をすてよ、出口日出麿著