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心霊の実在③

前回までのお話

信仰にはいるにも案外、病気からはいる人が多い。病気をたすけてもらえば有難いことがはっきりとわかる。どことなしに身にしみこんでいるから本気になり得るのです。
また、災害にかんする霊験、火事とか、暴風雨(あらし)とか、または、高いところから落ちて、ちっとも怪我をしなかったとか、これもよくあるものです。
これも実際についてお調べになればたくさんにあり、大本信者などは、このお神徳(かげ)、霊験というものは皆いただいているのです。これも分ければ、いろいろに分けられますが、いちばん多いのは病気とか、災害などでありまして、なにかその人が非常に困って、どうにもこうにもならんというときには、信仰のある人、至誠の人は霊験を受ける、このことは幾多の例があります。いくら文化がすすみ、科学がすすんでも、実際この世にあることはあるのです。 ……つづく 心霊の実在②

何となしに直覚するという霊覚

さて、今まで申しました因縁を感ずること、霊験にふれることのほかに、特殊の霊覚によって心霊の実在を確かめることができます。

ただし、特殊の霊覚というものは、皆一様に望むことはできません。修練すればある程度の感応、感じというものは誰でも得られるというものの、これには多少の先天性が必要であって、また体質などで、一様にこれを望むことはできません。

特殊の霊覚にも特徴があって、見る方の霊覚は眼で霊の姿を見たり、またいろいろな霊界の模様を見たりする。また聞くほうの霊覚の人は霊界の声を耳で聴く、神の声とか、あるいは何か霊的存在物の声が自分に聞こえてくる。また口でものを言う霊覚の人があります。しかし私の推奨しますのはーー何となしに直覚するという霊覚ーーこれがいちばんいい。それからいったら間違いないと思います。これは目に見えるのでも、耳に聞こえるのでも、あるいは自分で自分の意志以外のことをいうのではなくして、どこから来るのかわからないけれども、何となしにピンと肝にくる。いわゆる自分の霊魂のいちばん奥底に強くひびいてくる、直接(じか)にひびいてくる。それを何となしではありますが、確実に感ずるようになれば案外に当たるものであります。外的な眼とか耳とか、そういうものにたよると、それに囚われることが多く、

またそういう眼に見えたり、耳に聞こえたり言うたりする者を偉い、いいものであるかのごとくに、すぐ信じてしまうようになりやすい。霊界の霊にも、非常にいい神さまもあれば、案外つまらん動物霊というような、すこし劫をへた動物が、人間をオモチャにしているというものも中にはあり、こういうのは危険(あぶな)いことが多い。お大師さまを拝んだりする田舎のお婆さんなどに、手をあわして慄わすのがある。こういう、拝むときにいろいろな動作をしたりするのは、まだ低級な霊がかりである、とこう心得ておったらいいでしょう。

その他、人によって暖かみを感じるとか、何か悪い霊に接した時にゾーッとした感じがするとか、その人により、独得に特徴づけられておることを注意すべきであります。

近来、霊覚による心霊研究ということが、日本ばかりでなしに、日本より以上に欧米において非常にさかんになってきて、この方面の書物も相当に出ております。しかし、信仰と霊覚とは別ものであります。信仰が非常に高尚な人で自分に霊覚がないかのごとくに思っている人もあるが、

事実は決してそうではない。その人独得の霊覚がある。また、反対に、霊覚があるからその人が信仰的な人、あるいは信仰の高尚な人であるかのごとくに思うと間違います。霊覚にも非常に高尚な霊覚と、また低級な霊覚とがある。低級な霊覚につつまれておれば、信仰もついには横道にはいりがちであります。このことをよく知っておらないといけません。

霊覚と面貌の輝き

素人目にそういうものを見分けるにいちばんいい方法としては、霊覚者の態度、人格を見るのがいちばんよろしい。霊覚があるといっても、その人の所作なり人格なりが高尚であればそれはいい、それが悪ければ先ず悪いと見ていい。大体において、容貌を多少見ればわかります。高尚な霊がかりは高尚な顔をしている、低級なのは何となしに顔がそうでない。

といって、顔は親の遺伝を受けるからして、容貌が端正だからこの人は霊覚が正しいとか、信仰があると思っても間違います。それでは何によって見分けるかといえば、一種の輝きーー面貌にある輝きがあるーーこれは案外に肝心なものです。別に光が出るわけでもないが、何となしに感ずる、

パーッと現われているものであります。顔が大きいとか小さいとか、眼がどうだとか鼻がどうだとか、そういうことよりは、何となしに外に出ている輝き、これを感じるのがいちばんいい。また眼を見ることもいい。鼻や口は親との関係があったりして証にならんこともありますが、眼は偽ることができない。眼が輝き、眼が澄んでいるのは、心が澄んでいるにきまっている。赤子は眼がきれいなものです。素人の審神の標準には、眼を見ることがいいと思います。これも、同じ人でも疲れているときもあり、また旺盛(さかん)なときもあったりして一概にはゆきませんが、大体において、瞳の光に注意すれば、その人の心理状態が案外確実に現われているものです。

心霊と霊的自然現象の関係性

この霊覚により、心霊の実在を認めること以外に、霊的自然現象というものが、近頃大変あっちこっちに起こっている。これはどういうものかと申しますと、これは物質をもって、霊的な自然現象を起こす。机が誰もおらず、何も見えないのにひとりで動きだす。これは霊的に或る原因があるのですが、ちょっと見れば原因がないのに動きだすように見える。人が動かすのは、そこに人の力が加わるから動き、すべての物理現象は必ず原因結果があるが、霊的現象は原因がないように見える。

これは霊的な力が加わり、それが原因になっておるからである。「太霊道(だいれいどう)」に行くと霊子板の霊動といって、四角い板が積んであって、それが霊を受けるとふるいだす。自然物が霊気を受け磁気を受けて動くのである。俗に田舎でいうコックリさんというのがある。木の三脚があって、コトコトと音をさしたりして、こっちの要求に応じて、ならべてあるいろは四十八字のうち、二つ差すとか三つ差すとかして、返事を文字でする。これは田舎でよくやることであります。それからハート形の板があって下に三本の足があり、口のところに鉛筆をはさむようになっておって、これが自然にうごいて字を書く。これをブランセットといい、やはり霊的現象の一つで、案外にいろいろのことが当たることがある。しかし、むろん神さまが降ったりすることはありませんが、そういう一つの現象があるということを知っておいてもよかろうかと思います。

西洋ではテーブルターニングといって、物品浮揚現象をよくやっている。われわれは嫌いですからしませんが、ある霊学研究会などではやっておりますから、一遍見られてもいいでしょう。テーブルが宙に浮き上がったり、ボールがパーッと飛んだり、ラッパが空中で鳴りだしたりする、

これもよくやります。

そういうことがあるということは知っておられればいいと思います。しかし、これと信仰とは別であることも知っておらねばなりません。ただ、特殊の場合には、霊的にそういう作用をおよぼすものである、ということさえ覚えておればよいと思います。

つづく…

『信仰叢話』、心霊の実在、出口日出麿著

『信仰叢話』心霊の実在(全4回)


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