【人生ノート 208ページ】 心のはればれとした朗かなときには、思ったままをドンドン実行すべきある。
すべて、現在、自分の感じ、考えることは、すなわち、目下の自分の属している霊界(心の籍)を示しているのである。
直霊に省みて、自分ながら、いやらしく、バカバカしく思うようなことを感じ、考える時は、これあきらかに、自分が副守護神(欲求)になりきっている時であり、晴々として愉快を感じ、考えもこれに伴う時は、これ明らかに、正しき霊と感応している時である。前者の場合には大いに慎み省み、克己忍耐して、努力して神に近づくように心がけ、身をへり下りて、人と争わぬようにせねばならぬ。そしていろいろの雑念を去って、すべてを常識上から推考するようにせねばならぬ。
どんな人でも現界人は、長いこと、この境涯とたたかった結果でなくては、真に、絶えざる歓喜の園に入ることは至難である。これとの内的苦闘がひどかっただけは、また開悟の黎明も偉大である。
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心のはればれとした朗かなときには、大いに積極的に、小さいことを考えたり、省みたりなどせずに、思ったままをドンドン実行すべきある。でないと、折角の正神界よりの内流を、自分で妨げることになるのである。真に信仰さえ変わらねば、かげから神さまはかならず守ってござるから、思うままをしても、大した間違いはせぬものである。
「なんとなしに、そういう気がする」というのは、霊界が感応しているのであるから、なるべくその気分にしたがって行動した方が、かならず良いけっかをもたらすものである。
このことは、日常の体験から、誰でも肯くことである。
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要するに、人を恨んだり、世をはかなんだりする間は、まだまだ神の国の門戸へはよほどの距離のある証拠である。
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どんな人をでも悪く思ってはならぬ。こういうふうの人だと考えることはよいが、悪人だと頭から先入主的に思い込んでしまうことは断じていけない。
しかし、過去の因縁によって、誰でもなんとなく虫のすく人と、好かない人とはあるもので、これは過去の偏見がいまに及んでいるまでであるから、つとめて除去するようにせねばならぬ。
公平無私の立場から、一切の人をそれぞれに眺めねばならぬ。
『信仰覚書』第5巻、出口日出麿著