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【人生ノート287】悪平等観と悪階級観

悪平等観はいけない。悪平等観というのは、一切をそのまま平等なりと考えることである。

おれも人間なら、お前も同じたて鼻よこ目の人間だ、どこに違ったところがあるか。そのおなじ人間が、ある少数者は位と富とを擁して威張っており、大多数は碌々として苦しんでいるというのは分からんじゃないか。おなじ人間なら、おなじように富と位を分け合うて、上下、貧富の階級なしに仲よくやっていったらいいじゃないか … と、まあ、こういうふうに考えるのは、ちょっと聞くと無理もないように思えるが、実は大変な間違った考え方なのである。

おなじ種子を同一の苗床にまいても、日を経るにしたがって、苗に甲乙優劣がついてくる。さすれば、良い苗はよく取り扱われ、悪い苗は悪く取り扱わるるは必然であり、また当然である。

形においては、おなじたて鼻よこ目の人間であっても、その宿命的天分、現界的才能、努力、信仰等々においては、いろいろと差があることは争えないことである。したがってこの社会に、上下、貧富の差別が出来るのはやむをえないことであり、また当然のことなのである。

おい等は苦しみ悩んでいるのに、あいつ等は贅沢をし、威張りちらしている、実にけしからんと、自己の至らざる点は棚にあげておいて、ただ単に世を呪い人を恨む浅薄な思想が、このごろ伝染病のような勢いで蔓延しているが、これは実に、信仰と努力と真の自覚とのない時代相を適切に見せているのである。

しかし一面、利己主義一点ばりの人物が上に立って、狡猾にふるまっているという案外なことがないとも限らないが、それは、社会人に自覚と教養がまして来るにしたがって、もうダメになることである。

悪階級観はいけない。

悪階級観というのは、現在の階級をもって絶対視することである。したがって、上の者は下の者を理解し、誘導することなしに、単に軽侮し酷使するにいたり、下の者は上の者に何ら敬愛を感ずることなしに、偶像的に尊信するにいたるのである。

これ明らかに、封建の世の遺物である。

『信仰覚書』第七巻 悪平等観と悪階級観

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