【人生ノート 214ページ】 自己と他人とをくらべてみて、はじめて自己が明瞭になってくるのである。
ほんとうの自分を知るには
「自分はこう思う」ということはいってもいいが、「自分のいっていることはまちがいない」というようなことをいってはならない。
世界は広く、自分は小さいのだから。自己を知るためには、自己以外のものを知らなければならない。自己と他人とをくらべてみて、はじめて自己が明瞭になってくるのである。
他人のしていることは良くわかるが、いざ自分のことになると、直接、利害関係がおよんでくるので、たちまち迷ってしまうのである。たいていのことなら、他人のしていることを、とやかくいうものではない。自分は自分だけのことをしていたらよいのだ。
小さい自己に執着するから悩みが多くなるのだ。よく人の言動を観察してみると、その十中の九分九厘は自己から発している。これは無理もないことであり、また一面からいえば、それでよいのであるが、世界は自分だけのものではないから、どうしても、ときには、自己をまったくはなれた犠牲心を発揮しなければならないのは、明らかなことである。
今の世にもっとも欠けていることで、もっとも必要なものは、この犠牲心であろう。
若いあいだは、ともすると、物事を簡単に考える癖があり、手っとりばやくかたづけてしまいたがる傾きがある。これは自分の心が簡単であるから、いっさいをそうみるのである。世渡りというものをしてみて、はじめて、すべては複雑きわまるものであるということに気がつく。そして、心に落ち着きができ、質実にコツコツとやっていくようになる。
われわれの、この世における経験が積まれていき、万事に対して心がしずかになり、落ち着きができてくればくるほど、物事を本質的に熟視しようとするようになり、進歩に対する無謀な焦慮がなくなり、世上いっさいのありのままを、それぞれの完成にいたるやむをえない過程として寛容することができるようになってくる。それと同時に、自分というものの一念一動が、非常な影響を、絶えず、外に対して与えているということが如実にわかってくる。
ここで、はじめて、他人に対してはあくまで寛大に、自己に対してはあくまで厳酷にという根本的良心の態度がきまってくるのである。
すこし調子づくと、すぐ自分はえらいと思い出し、すこし失敗すると、すぐ身も世もあらぬようにしょげるのは凡人の常である。要するに、自分に信念ができていないからである。真知が足りないからである。無限法界の理を知らないからである。いままでの生活があまりに単調だからである。
だれでも、自分はいままで、いろいろと苦労してきたとか、いろいろと学問してきたとか、それそうとうに「われこそは」と思っていがちなものである。ところが、それが非常に邪魔になって白紙になれず、他人の長所をすなおに受け入れることができないのである。
いくら長いあいだ苦労してきたところで、いくらどえらい学問をやってきたところで、その間に、なんら省みるところなく、また悟るところがなかったならば、それはなんの効もない。外形的に、いくら獲物が大であったにせよ、精神的になんら得ていなかったならなんにもならない。
悟ることの大小は、けっして、時間の長短と正比例するときまったものではない。短日月の間にもおおいに悟る人もあり、長年月かかって、依然として依然たる人もある。要するに反省力、観察力の大小によってこうなるまでである。
他人のしていることは、楽なように見えがちなものである。しかし、いったん自分がその位置に立ってやってみると、はじめて、はたから見たようにはいかないものであるということが合点されるのである。
これは、何事についてもそうである。だから、つねに物事は自分自身で実地にやってみて得心がいくものであるから、若いときはできるだけいろいろな体験を持つように心がけなければならない。そうすれば、のちには物事の裏面がひと目で見通せるようになって、すこしのことに迷ったり、また、ちょっとしたことに不平不満をいうこともなくなってくる。
『生きがいの創造』出口日出麿著
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