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心霊の実在①
お互い人間は、心を持ち、魂を持っているということ、これはもうくどくど申さなくても良くおわかりのことであると思います。ただ、死んだ後にも心の働きがあるか、霊魂というものが実在しているかどうかということは、近ごろの学問ではまだ疑問視されている面もあり、いっぱんの人にもそのことが常識化していないといううらみがありますが、じつはこのことが、いちばん問題になると思うのであります。それで、死後の霊魂、死後の心霊の実在ということについて申し上げます。
心霊の実在
動物、植物、鉱物にも
現界における、この世における心霊というものは、われわれ人間が持っており、働きをしているばかりでなく、
動物にもそれがあり、また植物にもそういう傾向が認められます。
ただ意識がどこまではっきりしているか、あるいは意識していないかということが問題ですが、ある範囲の生命というものを持っていて、陽が出ればその方に向かって枝を伸ばすとか、あるいは水のあるほうに根を張るとかいう自然の霊性を備えていることは事実です。
また水晶などになると「子を生む」と俗に申しますが、自然に小さな水晶を増やしています。
石が子を生むということは事実で、一種の生物のような働きをしています。
また石の中にも、生石、死石といって、何となしに霊がはいっているような生々しい水々しい石があり、何となしに同じ性質の岩石でも、どこか朽ちたようなかすになったような気のする石も時はあります。
そうした同じ石でも、霊気を含んでいるのと、含んでいないのとあるのはお互いの日常に実見するところです。
ことに専門に石を取り扱う石屋さんはよくご存じです。
そういうわけで、心霊というものは、動物が持っているばかりでなしに、その濃厚であるか希薄であるかは別問題として、植物でも、鉱物でも、ある意味で持っていると言い得るのです。
ただ、この世に遍満している霊気、生気と、凝固って魂というものとは、多少本質的には同じであっても働きが違ってきている。
一つのほうは無意識的にそういう霊妙な働きを持っており、そうして希薄であって全部にゆきわたっている。
一方、魂になると凝り固まった一つの玉をなしており、統一体、意識体をなしており、明朗な自覚を持っている。
この点においてはっきりと違いがあります。
霊魂から流れ出ている働き
霊と申しましても、霊魂ーー一つの自分という意識を持ち、考えを持っているーーと、その霊魂から流れ出ている働きーー霊気、生気ーーとの二つに分けることができます。
この生気、霊気というものは何にでも宿るものであり、ゆきわたるものであることをよく知っていてもらいたい。
たとえば、一生懸命に鍛冶が刀を打つとすれば、その一生懸命な気持ちーー清浄な、潔斎した人格がその刀の中にはいってゆく、そうして名刀ができる。その刀を、観る人がみれば同じ人が打った刀でも、その時の気持ちによって刀が変わってくる。
やはり潔斎精進して打った刀のほうが良い。
なぜ良いかといえば、中にこもっている霊気ーー生気が違うのです。
刀を打つことのじょうず、へたは別問題としても、どことなしにその中にこもっている気魄ーーどこというて指し示すことはできませんがーー何か一種のピンと自分にくるもの、輝きというようなもの、霊気というようなものを自と感ずることは皆さまもおありのことと思います。(ただ眼に見えるか、見えんかだけです)
これは何にでもあります。
時計なら時計というものでも、これを或る人が熱愛しているとする。
「自分のものだ」と思い、一生懸命にして大事に手がけていると、知らず知らずに「これはいい時計だ、役立つものだ、大事にせねばならん」という想念がこの時計のなかにはいってゆく。
ですから、この中の分子体、霊気体、そういうものの配列が変わって来る。
要するに、どんなもののなかにも分子とか原子とか電子とかいうもののないものはない。
その人が、これはいいと思えば、いいという霊気、気持ちが浸みこむ、浸みこむからして分子、電子、霊気体というものは影響を受ける。
見たところ大きな全体には何の影響もないようですけれども、気というものは、どんなものにでもこもる。
空気はどんな小さなところ、細いところにでも入ってゆくように、気というものは、それ以上に、どんな固いところ、狭いところにでも入る得る。
これはおわかりのことと思います。
空気はガラスの中には入れず、石の中へも入り難い。障子や、畳の中は通すが … ところが霊気というものになれば、石の中でも、刀のなかでも、ガラスのなかでも、鉄のなかでも、どんなものの中にでも浸みこむことができるのです。
「思い」=人間の想念
人間の想念ーー一口に言えば「思い」は、どんなものにでも通じ、どんなものの中にでも入ってゆくものです。
一例をあげて申しますと、自分が一生懸命に愛している一本の木や草、こういうものでも、「これは早く良くしてやらねばならん、大事にせねばならん」というて、それを見まわるだけで、毎日見て歩いているだけで、その木や草は見て歩かん草木よりも良くできる。
お百姓が稲に手を出さずに、自分が毎朝稲のまわりをグルグルとまわる、これはただまわるだけで稲の肥料になる。
人間の気というものは、植物等にも肥料(こえ)になるのであります。
これは実験して見られればわかります。
同じ盆栽なら盆栽を二つおいて、一方に、「良くなれ」という思い、気持ちを通じ、一方には「枯れ、枯れ」という気持ちを通じるとすれば、「良くなれ」というほうは、非常に良い影響を受けて、ずんずんと良くなり、一方は悪い霊気を受けるから枯れてしまう、これはおわかりと思います。
何にでもそれは通じるものであり、そういうことが知らず知らずにあるものであるから、人間の想念というものは怖ろしいものであります。
昔から「丑の時刻(とき)詣り」といって、夜の二時ごろ、人々の寝静まったときに、お宮などに詣って、憎いと思う人の藁人形とか、絵図とかを描いて、それを樹などに釘づけにして、そうして眼なら眼、鼻なら鼻を、向こうの人間じゃと思ってうち込む。
そうすればそれが、相手に応える、これは非常にいかんことですが昔はよくやってものです。
どうしてそれがきくか、藁人形や絵図を叩いたり切ったりしたところで何の影響もないではないかという人もあるが、それは「気」というもの、想念というもの、その気から出る波というもの、エネルギー、気から出る一種の伝記、その働きを知らん人のいうことで、憎いと思って打ちこむとその気が強い電気の波となって、ほんとうに相手に伝わって行くから相手はその影響を受ける。
その人は病気になるとか、原因のわからぬ故障が起きるとかいうことがあるのです。
しかしこれは「人を呪わば穴二つ」といって、そういうことをやれば自分も墓場に行かんならんようになる。
人を殺そうと思えば、まず自分の穴を掘っておけと昔から申すのであります。
とにかく人の想念は怖ろしいものであって、実際は知らず知らずにこの想念というものが世の中を乱しており、また良くしてもおり、いろいろと根本的な影響を与えているものであるということを知らねばなりません。
お互いの家庭においても、家庭の人々の想念というものが浄らかであり、親しみぶかく、真実があれば、何となしにそこには輝きがあり、愉快があり、幸福があります。
それに比して想念というものに憎しみがあり、嫌味があり、不親切があれば、そういう気持ちが、しじゅう波となって流れ出ており、その波と波とが衝突して向こうの体にぶっつかる。
それが何となしに感ずるもので、この何となしに感ずるのが怖ろしいのです。
世の中を良くしようと思えば想念を浄らかにせねばなりません。
何よりもこれが大事であります。
動物にも霊魂はある
動物の心霊でも非常な働きをするものであって、たとえばネズミなどは火事がある二、三日前にちゃんと他所(よそ)へ移ってしまう。
大火のある前にネズミがおらなくなった、ということはよく聞くことです。
また山にいるキジとか、あるいはいろいろな動物などは、大地震がくる前にさわぎだして移転する、
そういう時には用心せよ、と古来、言いつたえがあります。
これは、いわゆるそれを感じるのであります。
ただ人間は外界のことにとらわれ過ぎるために、そういう力が鳥、獣におとっている人が近代は多いのです。
犬などでも、シェパードなどは百メートル半径以内に人が来ると、ちゃんと知っています。
向こうがわに寝ておって、こっち側を人が歩いて来てもすぐ嗅ぎわける、そういう力を持っています。それは、鼻の力というほかに心霊の力があるのであって、本能的に動物にそなわっています。
ガマなどはハエが飛んでいると口を開けてパクッと吸い込む。
すぐそばでなしに、だいぶはなれておっても吸い込む。
イタチやテンなどは鶏の血を吸うのに、鶏小屋の外から吸うて殺したりすることはよくあります。
こういう威力を持っているだけに、もしそういう動物の霊魂が死後もこの世に残っておるとすれば、それが人間医およぼす影響というものは大変に大きいもので、動物をいじめたり、なんにもしないのに殺すということは、いかに罪悪であり、それがまた人間にかえって来て人間を苦しめ、人間をいろいろと困らせているということは思いなかばに過ぎるものがあります。
私が紀州の方へまいって体験したことですが、ある人が腰に三カ年も立たない。
「ぜひ見てくれ」というので、「信仰を一生懸命にやったら、外のことはいろいろなことはせんでもいい。
病気になるということは、何か必ず原因がある。
体の強い人でも病気になることがある。
これすなわち心霊方面が根本的原因をなしているからである。
それで信仰をして、そのツグナイをしなけれならない、信心することによって償われる。
その他に方法がないから見んでもよい」と言ったが、「ぜひ頼む」と言われるので、神さまにお願いしてお取次をしてあげたのです。
そうしたら、大きな狸が憑いておったので、「あんたの家の人か誰か、狸をいじめた人はないか」と簡単にたずねました。
ところが、「お祖父さんにあたる人が、頭の白い狸を殺したことがあります」という話です。
それで、「その怨みがあんたに来ているのだから、信心してその怨みを解くようにし、神さまのご守護を受けねばならん。
これはやはり、あんたの家に怨まれるだけの訳がある。
たぬきはお祖父さんを怨めばよいけれども、そういうものは、だれかれの差別がない、かえって孫や子供、お祖父さんのかわいい、その人のいちばんかわいいものにやってくる。
自分のいちばんかわいい、それに来られると、いちばんかなわん、そういうものに来るものである。
ですから、あんたばかりでなしに、一家の人がこぞって信心して神力を受けねばならん。
もうすでに受くべき理由(わけ)があって受けているのだからして、追い出すのは理不尽である、不法である。
なんぼ人間でも、狸が何か悪いことをしたのならいいけれども、何もせんのにポカッと殺したかどうかしたのでしょう。
何にもせんものを殺したり、たたいたりすれば、こっちが悪いから、神さまといえどもこれはしょうがない。
しばらく辛抱せねばならない。
いいことをして、その怨みの償いをして、時機がきたら、もうお前はあっちへ行けとお命じになる。
神さまのお力はそのくらいは何でもない。
ただ、その資格をつくらねばならない。
自分の一家がそれに相当するだけの罪ほろぼしをしなければ、なんぼしても直らない」という話をしたのです。
これは、死んでも動物の霊魂はまだ実在しているのであって、肉体は亡くなったが、霊魂というものはやはり一つの体を持って霊界に棲息し、意識して、その怨みを晴らしに来ているものであるという一例なのです。
これは理屈でなしにちゃんと事実が符合している。いろいろな、百千の理論よりは実際にあることは間違いない。
これが、動物の霊魂はあるという証拠になるのです。
幽霊は実在する
それから、ある晩のこと、私が寝ておりますと、三十五、六に見える、紋付を着て顔の長い、背のすらっとした婦人がやって来た。これはつまり幽霊が来たのです。
これはよくあることです。その幽霊が、「自分の家庭はいま借銭をして非常に苦しんでいる。
自分は子供を一人生んで現界に残してきている。あとに後妻がきているが、その子供が三、四人生まれている。その後妻との間も心配であるが、いちばん心配なのは、自分の夫が借銭をして、その借銭も、先にあった上に、またほかから借銭をして借り替えようとしているようであるが、そうすると非常に利に利が積って、元金(もときん)は少ないのに、しまいには非常に大きな借銭になり、それが、跡取りの自分の子供におよぶ。それで、いま屋敷や家を売るなどして、整理を早くしてくれるようにして下さい、これが気がかりなので出て来た」というのです。顔を見ると、相当に年がいっているように見えました。
「あんたは、いつ亡くなられた」と聞きますと、「二十八で亡くなりました」というておりました。
今でも顔をはっきりと覚えています。それが夜半でしたが、「よろしい」というて、それなりまた眠ってしもうた。
「約束をしたからには言わないかん」と思うて、ある時機に、その人にそれを伝えたのです。
ところが果たしてその通りになっている。
死んだのも二十八であったというて、あとから写真を持って来たが、やはり同じ顔でした。その写真は少し肥えて若く、私の見たのは少しやせていました。
それは、その写真は若い時にうつした写真であったので、今とは違っているのでしたが、とにかく、事実が符合する。理論もクソもない、探索して当たったわけでもない。
自分の見たままを語った事柄が実際に符合しただけであって、何らの理論をはさむ余地もない。幽霊は実在する。
そして、なお現界のことを、自分の残してきた子供がある場合には深く考え、憂慮している、ということがわかるのです。
あるものはある
このように、すこしく霊というものに接触することができれば、霊界の実在ということを、れいれいしく、ここに題目をかかげてお話しすることは馬鹿らしゅうてできません。
ちょうど、われわれが、ここに黒板がある、白墨がある、机があるというのと同じようなもので、それよりは多種不明瞭ではありますが、要するに、あるものは在ると言うだけです。
今の現代人はこれだけがなかなかわからん。
それは、ただ五感にばかり頼っておって、体的なことにのみ一生懸命であり、教育も今までの教育は、そういう方面を否定している。
神さまを信ずるなどということを迷信あつかいにしておったからです。
しかし、あるものは在る。こういう因縁話は到るところにあるのです。
実は題目についてお話しするよりは、どうしても実際問題についてこれから皆さんが体験をなさることで、なにか奇怪(おか)しゅう思ったり、自分の眼に見えず耳に聞こえなくとも、因縁事はあるものだ、これはお神徳(かげ)であった、これは不思議だということにぶっつかられたらそれでいいのです。理論は何もない。
たえばここにコップがある。これを、「どういう理由で在るか」「何故なければならんか」そういうことは考えてもしようがない。
あるものはある、ないものはない。
心霊の実在ーー幽界的心霊の実在は理屈よりは、ぶっつかることに努力され、精進されたらそれでいい。それよりは何を言うてもしようがない。あるものは事実ある、これをいろいろ、いう訳にはゆかないのです。
神さまはある
紀州でもう一つ体験した話をします。田辺というところに、信者になった人があります。その人の入信の経路がまたおもしろい。その人は決して神さまを拝まなかった人で、無心論者的の人でした。ところが娘が病気になった。医者も、もうあかんと言う。親心として、何とかして助けたいという気が起きたのですそこで田辺の大本信者のお医者さんがあったので、その人に一つ見てもろうたら、あるいは神さまにも拝んでくれるかも知れんという気になって、診(み)てもらった。ところが診察(みたて)が前の医者とは少し違っている。そうして「これはどうしても信仰しなければいかん」ということを、ハッキリ言うた。その日はそのまま自宅(うち)へ帰って来た。
ところが、病勢がますます悪くなった。そのあくる朝、もとの主治医を招んでこようとしたが、その主治医が何かの病気になって、行くことができん。しようがないから、大本信者の医者を頼もうかというので電話をかけて来てもろうた。その医者は、病人を見て、おひねりさんを持ってこさして飲ました。そうして、「一生懸命に神さまを拝みなさい」というているうちに、四十一度の高熱がすーっと降って三十七度になった。それを見て「もう大丈夫だ。お神徳(かげ)を受けたから … 。信心を一生懸命になさい」というて帰った。親としては到底あかんと思っておったのが、これだけ良くなったのは不思議だ、というので、もとの主治医にそのことを話して、たずねてみた。ところが「それはあやしい、そんなわけがない。これはきっと死ぬ前にちょっと良くなることがあるから、これはあかん」ということで相手にしない。
しかし、ようなったのは事実である。これはどうしても神さまを拝まなければならん、という気になって、「どうしたらいいか」と聞きに来た。それで「<大本皇大神>というて拝んだらいい」というわけで、何かもらってきて柱に貼って、一晩じゅう一生懸命になって拝んでるうちに、いわゆる霊感を覚えた。自分の背中に何か水のような、ぬくみのものがすーっと流れてきて、何ともいえん良い気持ちになったと思うと、柱に貼ってあったご神体から、お光ガパッとさして、自分の娘の病床の上にサッと扇形にさしている。そして、「大本の神である」ということを、言葉では言わんが、感ぜられる。いわゆる悟らされたのです。そうしてその光が、しばらくのあいだ
眼に見えておって、「これからわしは大本信者のお医者の家へ行くから … 」というように聞こえると思うと、その光がパッと消えてしまった。はじめて、これで「神さまはあるものだ」ということがわかり、その娘はそれっきり、すーっと良くなってしもうた。
これは、その人が頑固で、普通では神さまのほうにこないから神さまが解くに手数をとられたのです。それで私は、「あんたは頑固だから、神さまは特に、たいへんなお手数を取られたのだから、それだけに余計、ありがたいと思って一生懸命に信心せねばならん」と申しておきましたが、こういうことよくあります。
不思議なことを見ずに信ずる人、これは上々です。神さまはあるにきまっている。とにかく、霊魂は不滅であるにきまっていると、何となしに感じて信ずる人は上々です。次はそのほうを多少研究してくる。これが中で、どうしても頑固なのが下です。その下の中でも、そういう不思議が見せられてパッと変わってくる。これは下のなかでも上のほうです。そういうことを見るとか、見んとかが偉いとか、いいとかいう問題ではないのですが、そこまで一遍ゆけば、どんな頑固な人でも
感ずるわけであると思うのです。 ・・・つづく
『信仰叢話』、出口日出麿著