神経衰弱考察
神経衰弱は霊のしわざなり。軽度なる時は運動と美食と睡眠によりて治すべし。本人もつねに理性に省みて「自分はいま、考え方も病的なり」ということを念頭においておるべし。
歌舞音曲は凝らぬ程度においてすこぶるよろし。自分と気の合う人によりて慰めらるること大なり。華族の人たちは、病人に対してはつねに和気をもって対し、かりにも、本人をして疑いをおこさしむるが如き言語挙動あるべからず。
やや重き者は、しずかなる質におらしめ、滑稽物、講談本など適宜に読ましむべし。彼等はいたって疑いぶかく、つねに自己不安におそわれ通しなり。
これ邪霊の本性なり。
多少、教養ある者においては、みずから戒めてその常軌を逸するを制し得れど、平素より小胆なる人が、
または身体虚弱なる人、またはわがままなる者等においては、邪霊のとりことなり終わる場合も往々あり。
特に、身体虚弱となれば、いきおい本霊の活動にぶり、邪霊に乗ぜられがちなり。
なんといっても、人間的活動の根源は食事にあり。健康者にありても、ちょっと飯を食わいでも、ウンと活動力にぶるものなり。
いわんや、病患者においておや。
ついでながら、人間は一種のカラクリであるから、ちょっと工合が悪くても、すぐに全体にこたえて悄げてしまうものなり。精神的にもそうであって、一こと、他人から賞められれば、すぐに意気昂然となり、ちょっと悪くいわれるれば、あた直ぐに無茶苦茶に悲観してしまうものなり。何によらずそうなり。
理屈は一通り、えらそうなことを言っている人でも、実際にあたってみれば、何でもないようなことが出来ないなり。
実に人間というものはデリケートなものなり。
人と話しをしたがらぬ孤独な陰気な人間は、大抵は神経衰弱なり。(むろん、ややそんな素質の人もないこともないが)
愉快に無邪気に平和に話しをする人は、神に近いなり。闇を好み人を呪うがごとき根性は、かならずや
地獄より来たれるものなり。
自己のうちに、いく分にてもかかる心あらば、日夜省みて除却することに努むべし。かくつねに、直日に省みることだに怠らずば、悪魔もつけ入るあたわず、ついには見切りをつけて去るものなり。そこまでの辛抱がなかなかなり。
神経衰弱的傾向のある人は、あくまでも意志を強固にして、つねに直日に聴従することにつとむべし。これが最良の療法なり。
いかなる悪魔といえども、その人に乗ぜしむる隙さえなかったら手のほどこしようはないなり。何か小さいことに心配したり、気にかけたりしているに乗じて、悪魔は得たりかしこしと、その人を自由にせんと猛威をふるうものなり。
「いま自分は死んでもかまわぬ」という真の大覚悟さえ平常(へいぜい)からできておればなんのこともなきなり。
人の肉体に巣くうている悪魔は、いろんな隙をねらってその人の心を撹乱せんとたくらんでいるものなり。
心に落ちつきなく、顔にふくらみなく、声に笑いなき人は、つねにみずから省みて、身内の悪魔と勇敢に決戦する覚悟なかるべからず。
実に現代人の十分の八九までは、ある意味において神経衰弱の人たるなり。真善美を好みて止まざるは人の情なり。木綿ものより絹ものがよく、麦飯より米の飯がよいに相場はきまっているなり。淋しきより賑かを好み、不便より便利を好むのもあたりまえなり。ところが島国的神経衰弱ーー長い間、東洋の一孤島に幽閉されていたお蔭でーーになっているわが国の人々の中には、実に気の小さいケチケチしたことを、勿体らしく説きまわる人あり。特に、一種の宗教家気どりの輩には、これが多いなり。男女問題にしたところが、社会の安寧秩序を、大して侵さぬかぎりは、なるべくは大目にみるがよいなり。今さら、身分家柄も長男もへったくれもあったものにあらず。本人同士が真に好き合うているならば、こころよく結婚さしてやるべきなり。家が絶えるとか、絶えんとかいうことも、大きい立場から考えてみれば、なんのことやら合点がゆかぬなり。無理につぶす必要もあるまいけれども、無理やり算段してまで、あとを継がす必要も一向ないなり。考えてみるがよい、地震一つで東京もあのザマだ。すんだことや、これから先のことまでを、現在より以上に価値づけるのは旧式だ。
元来、日本人は気宇も大きく、楽天家であったのだ。万有流転し、人みな死ぬのだ。もっと大きい立場から、ものを見直さねばならぬ。
それから、も一つ言っておきたいのは、大きい意味からいって、人事は万事宿命であるということだ。外界を造るものが神であるかぎりは、人の運命を支配するのも神だ。太陽が沈みかけた時、いくら焦って工夫してみたところで、ちょっとも後へもどすことも出来はしないし、東京の大地震を誰一人、的確に予言し得たものもない人間だ。ジタバタさわいだところで、万事はなるようにしか成ってゆくより法はない。よし、人為的に一時大勢をくい止め得たにしたところで、それがなんになろう。瀕死者をカンフル注射で、一時、生きているという名だけをつないでおくようなものだ。春になったら、黙っていても花は咲くし、夏になったら、降れと祈っても雪は降らぬ。運がむいたら、することなすこと良いことばかりになるし、下り坂になったら、手を出すことみな失敗の基となるのだ。窮即通(きゅうすればすなわちつうず)で、上りきったらまた下るし、下りきったらまた上り出すにきまっている。死んだら生まれるんじゃし、
生まれたら死ぬのじゃ。
上り下りで綾があり、生まれたり死んだりで変化があるのだ。綾や変化があるので、世の中はおもしろいのじゃ。
こういうふうに大局に徹して、ひろく愉快に世事万事を観るべし。神経衰弱は吹き飛ぶなり。
この頃の人間は、二こと目には食えん食えんといっているが、真に人事をつくして食えんということは滅多にはない。みな、相当の体面をたもってやて行きたいと、最後の最後までも執着しておるからなり。
もし、果たして真に食えんことになったなら、致し方がない、餓死するまでだ。昔から、餓死した人の例も数も、ずい分あることだから。
『信仰覚書』第二巻、神経衰弱考察、出口日出麿著