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心霊の実在④
前回までのお話
霊覚により、心霊の実在を認めること以外に、霊的自然現象というものが、近頃大変あっちこっちに起こっている。
これはどういうものかと申しますと、これは物質をもって、霊的な自然現象を起こす。机が誰もおらず、何も見えないのにひとりで動きだす。これは霊的に或る原因があるのですが、ちょっと見れば原因がないのに動きだすように見える。人が動かすのは、そこに人の力が加わるから動き、すべての物理現象は必ず原因結果があるが、霊的現象は原因がないように見える。
これは霊的な力が加わり、それが原因になっておるからである。
そういうことがあるということは知っておられればいいと思います。しかし、これと信仰とは別であることも知っておらねばなりません。ただ、特殊の場合には、霊的にそういう作用をおよぼすものである、ということさえ覚えておればよいと思います。 つづく・・・ 心霊実在③
霊的自然現象から
信仰とはそういうことをするのではなく、内的に向上して行き、光をつかんでゆけばよいのであります。宇宙をよく観れば、天地が悠々と運行しているのも奇蹟であり、すべてに奇蹟的な声があり、この世の一切がことごとく奇蹟ならざるはない。それに、小さなことにとらわれて、不思議だとか、奇蹟だとかいっているのは、まだごく初歩の初歩であります。
それから霊的現象の中に自動書記というのがありますが、これにはいろいろな種類があって、非常に高級なものと、ごく低級なものとあります。それから霊写真というものがありますが、これは普通の写真で、普通の人間のうしろに霊の姿が見えてくる、それはその人に属している因縁でありますから、その人がどこに行っても、どこの写真屋に行っても憑いているから写る。人間を通して
背後の衝立の松が写っているのやら、人間から白い条のよなものが出て、幽霊のようなものがスーッと浮き出したり、こういう霊的現象はときどき写るものであります。
とにかく、そういうふうな話はいくらでもありますが、原因はその物にあるのでなく、それ以外の或る物があるというのが霊的現象であります。人間が一生懸命になった時には、普通では出来ない仕事ができる。そういう時は、やはり霊験、ご加護によって自分が霊的現象に入る。たとえば、普通の常識ではどうしても飛べないような所なども、一生懸命に信じておったりすると、普通の倍も三倍も飛べたりすることがあります。一般の人は、それを物理現象などと同一視しているものもあり、あるいはゴマ化しているかのごとくに思っている人があります。これはよく実地に当たってみると、決してゴマ化しているのではないことがわかります。だいたい、幽界的心霊の実在を感知する上において、因縁よりと、霊験よりと、霊覚よりと、霊的自然現象よりと、この四つがると思うのであります。
霊魂と火の玉の関係
霊と申しますと、火の玉を見る人は案外普通の人にもあるものです。人が死ぬ二、三日前にその家から
火の玉が飛び出る。これはよくあります。これは人間の身体の中には、ただ一つの魂だけでなしに、いろいろほかの魂が一緒になって、その人をいろいろと助けている場合がある。その魂が、肉体が弱ってきて「もうこれはあかん」と見きわめがつくと、いままで憑いていた霊魂がパッと飛び上がってーーネズミが、火事の起こる前によそに引っ越すと同じようにーーその人をたすけていたけれど、死ぬ前に飛び出る。もう一つは死んだ後に迷うて出るという火の玉もある。非常に不自然な死に方をした時などには、その日その場に、その時間に必ず出てくるというようなことはよくあります。これは、その人自身の霊魂が来るのであります。
火の玉の大きさなどもいろいろありまして、ごく小さい火の玉もあれば、人間の火の玉になると直径約五、六寸の大きさであり、神さまなどになりますと、直径が約一尺くらいの大きさのを見ることがあります。そうしてまた、その霊魂の性質によって色の別があります。赤味がかったのもあれば、青いのもあり、紫がかったのもあり白いのもあり、いろいろあるものであります。
火の玉は、みな球形に見えるが、それが地上(した)に落ちて人の眼に触れるときには亡霊の姿になりますけれども、飛ぶときには球にしか見えない。また、よく火の玉の落ちたところに行ってみると、鼻汁のような粘液があって、虫がウヨウヨしておったというようなことを実見した人もあるようでありますが、これはどうしてこういうものがあるかと申しますと、上等な霊魂でも、下等な霊魂でも、霊魂には体がある。ただ、それが電子体であるか、あるいは物質的な体を多少持っているか、あるいはガス体であるか、ガス体であても希薄なガス体であるか、煙のようなガス体であるか、というような差があるのであります。多少物質的なほうに近い霊魂になると、タス体でも、まだ粘液体を加えている。動物霊などは、たいていの場合は一種の粘液体を加えているもので、そういうものが解脱する時にはその粘液体を残して、一段と純なものになって行くのであります。それで、病気によって匂いがある。これはその憑いているもの、あるいは、その人をそうさしているものが匂いを持っているのである。匂いに鋭敏な人は、それを嗅ぎ分けることもできます。
一例を申しますと、蛇、大蛇の臭気の濃厚なやつに取り巻かれ、憑かれている人は、なんとなしに息が青臭い。それが解脱するときには、青臭い痰みたいなものを出すことがある。そうして、その体を離れて一段と向上してゆく。これは、よくあることです。そういうわけで、火の玉が落ちた跡に粘液体が残っているということは、いわれのあることであります。
直接談話ということを、日本でも或る霊媒などは非常に得意にやっておりますが、つまり、亡くなった人が空からものを言い出す。これはちょっと前に東京に明道会というのが出来て、いろいろやっておりましたが、「あれは詐欺師だ」などと新聞などに書かれましたが、あれはどうか知りませんが空中談話ということは実際にあるものであります。つまり霊覚の耳で聴くのと同じようなもので、それを一般(みな)に聴かせるようにする芸当を持っているに過ぎんのであります。一般に聞かせるには火樹に勢力が要る。霊でも、より物質的にならなければならない。したがって霊媒が必要であり、その霊媒から物質的なものーー粘液を抽き出す。そうすれば、その霊は非常に物質的になる。そうして皆に聞かすためには、ラッパみたになものがあって、それが空中にパッとあがってゆく。そのラッパに口をつけて言うらしいのですが、そこにいる人に明瞭に聞こえます。
亡くなった人の霊魂を招んで聞くようなときに、ほかの人の知らない秘密を要ったりすることがあります。
こういう実験会は、日本ではあまり盛んではありませんが、西洋では力コブを入れて大変盛んにやっております。霊的自然現象は大体そんなもんです。
いろいろな不思議な光を、文字にしたり出したり、あるいは顔を暗闇のなかにスーッと出したり、幽霊の顔を作りあげたりする。それではそういうものを、もっと広い公開の席で大衆的に見せたらよいと思われるでしょうが、これは霊的な仕事で、そこに来ておる人が純に観ておる場合には非常によくできるが、「邪魔してやろう」と思って行ったり、疑いを強く持ったりすると、その思い、その想念の波は、相手に強くぶっつかるから、人の大勢いる場所などでは、いきおい不成功におわることもあります。
霊魂のことは大人よりは赤子がよく見る。子供が夢を見ても、案外ほんとうのことが多い。子供は、霊的に疑いぶかい大人よりは、よく見るものです。子供が夜中にうなされたりするのは、
よく気をつけてやらないと、そうした霊的なものに襲われているときがあります。
現世(現界)には霊界が映る、現界と霊界の関係
この現界は俗に現世と申しまして、霊界が映るところであります。眼に見えない世界を投影している。この人間の身体は、人間の心霊の形態であって、人間はその心霊の形態のようにだんだんとできてゆき、また活動するものである。肉体というものは心によって動き、成長してゆくものである。これはもう明らかである。社会全体は大きな或る霊界の影響を受けて、それがうつって必然的に或る方向に流れてゆく。その証拠には、人間が何ほど科学的な発明をし、いろいろな会議をしても、この社会は人間の思うようには進んでゆかない。世の中の地勢というものは、ある大きな力によって支配されているのである。もしこの世の中が人間だけのものであるならば、人間が相談し、人間が考えたようにゆかねばならない。また自分自身が自分の思ううようにゆかなければならないはずであるが、自分自身のことすら思うようにゆかず、自分が何やらわからない。人間の自由意志の範囲で考え、あるいは為すことはごく狭いものであって、ただ煩悶するくらいなものであり、自分で作りだす、考えだすということはごくすくない。ゆえに作られたものであり、
且つ貸されている物であるという事を自覚しなければいけない。
人間の永世−永遠の生命−
現世(うつしよ)というのは霊界を映しているものであり、これは個人的に映り、一家に映って来、団体にはまた、霊界の団体が映ってくるものであって、悪いほうが映ると悪いほうにゆき、いい霊界が映れば良いほうへ良いほうへと持ってゆかれるものである。お互いでも、良い友達を持っておれば良いほうにゆき、悪い人には良い友達がない。これ自然の理であります。
もし霊界というものがなく、また人間の永生ーー永遠の生命ーーがなく、霊魂は不滅でないとしたならば、人生ほど不合理なものはない。
たとえば、甲が千万長者とすれば、甲は栄耀栄華の生活ができる。ところが乙のほうは、貧乏人の裏長屋に生まれたために一生うだつがあがらない。あるいは、障害をもって生まれたがために一生、生まれないほうがましだったくらいの苦労をする。どうしてそういう差が出てくるかということは、どうしてもわからない。一方は高いほうに生まれ、一方は低いほうに生まれる。ただ偶然にそう生まれ、そうしてそのまま終わるとしたならば、この世ほど不自然なものはない。
これでは怨むにきまっている。一方はとても損であり、理由がわからない。この世だけの世界としたならば、どうしても人は焦る。この世だけで良くならねばいけない。この世だけで自分の希望を達成しなければならない。という気持ちに燃えるのは必然である。悪いことをしても自分の利益のためならば辞さない。どうしても百年の計画、永遠の計画からその働きをするということは考えない。自分の生きているうちに、と考えるのは当然であります。
しかし、生死ということを考えれば実に神秘であります。父親、母親は子供を自分でつくったように思いますが、自分でつくったようで、つくったのではない。つくらされているのであるという証拠は、子供はとても自分たちの思うようになるものではない。自分で計画して作ったものであれば、これは本当に人間がつくたのである。黒板でも机でも自分で計画し、その通りの寸法で出来たのであるから、確かに人間が作ったのであるが、子供はそうではない。どのように考えても思うようにはいかない。これはどうしても、人間の両親ーー男女だけで作り上げたのではなく、もう少し奥があるということを知らねばいけない。死ぬということも、ほんとうに人生の終末であると思ったならば、
安心立命は得ようとしても得られるものではない。死ぬまでに何とかしておきたい。出来るだけの法の網目をくぐって、かしこいことをしたほうが偉いと考えるのは当然である。死後のことを動作の計画に入れる者はない。この世だけの動作の計画に入れたらいいと考える。これは当たりまえであります。
心霊を認め、また霊界の永遠の生命を知って
安心立命というもの、ほんとうの道徳というものが行われるのは、どうしても信仰によって心霊を認め、また霊界の永遠の生命を知ってはじめてできる。今でなしに、百年先、千年先、万年先で得なように、先で良くなろうという大きな欲があるからやってゆける。これを認めるか認めないかということが、人間の行動の上において、毎日の所作の上において、非常な、天地の差ができてくる。それを認めている人は永遠の気持ちでやっており、神に徹する気持ちでやっている。それを認めない人は自分本位であり、また五十年本位である。ゆえに、すること為すこと、一方は永遠性があり至誠を守っている。一方は五十年だけであり、自分だけ守っている。それをハッキリしようともせず、ただブラブラしているのが普通の人間であります。
未来観を確立することによって、現世観を確立するわけであります。もしまた、神霊は実在しないとしたならば、神社もお寺も必要がない、存在の意味をなさん、こけおどしであり、方便に過ぎないのならば、たくさん金銭(かね)を使ってお宮を建てる必要もなければ、神主をやしなう必要もない。講演にでもし、公会堂にでもして、記念碑でも建てておけばよいということになり、また先祖のお祀りをする必要もない。
また、この宇宙の運行は、統率者なしに、あるいは目的なしに行われるはずがない。心があるから人間に所作があり、活動があり、本能がある。大宇宙でも、これだけに大きく成り立ち、組み立てられておって、一点の齟齬なしに、衝突もなしにいっているということは、大きな意志、大きな力があればこそであるということは、常識から考えてもわかると思うのであります。
だいたい、心霊の実在ということについては、ごく大ざっぱであり、通俗的でありましたけれども、このくらいにしておきます。
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顧みればうらはづかしき宿世なり
などてや人をひたに誣ひむや
いと弱き小さき吾と知ることが
道を求むる始めなりけり
省みることのすくなき人にこそ
悪魔は宿るものにありけれ
『信仰叢話』、出口日出麿著