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理想を見つつ現実を離れず、しかも現実を一歩ずつ向上させねばならぬ。 永遠を仰ぎつつ現在を離れず、しかも現在を一歩ずつ向上させねばならぬ。 無限法界を解するとともに今界を会得し、しかも一歩ずつ今界を向上さすことい努めねばならぬ。 ○ 無限に為し 無限に省み 無限に悟れよ 出口日出麿著『信仰覚書』第三巻、無限に悟れ これまでのお示し
導かれる方の人は、決してあせってはいけない。一日一日、一歩一歩と悟ってゆき、進んで行くようにせねばならぬ。これらの人々にとっては、反省と忍耐とが何よりである。この二つを忘れぬように、そして導かれるままに、一心不乱にすすんで行きさえしたらよい。 反省することは、真に“知る”唯一の手段である。内に省み外に省み、ここに始めて自己を知り他を知り、やがて神を知ることができるのである。反省のないところに改悟はなく、自らの改悟のないところには新生はない。 永久に同一世界にうごめいている
何事も神意にまかして、あせらず、あわてず、その日その時のベストをつくして、一生を一日のごとくに悠々とおくる工夫をせねばなりません。 天国へ行くのも地獄へ落つるのも、みな自分自身が平素からの心の状態がつもりつもって、必然的にそうなるまででありまして、けっして、神さまが連れて行かれるものでも、また社会がそう強いるものでもありません。みな、みずからの心の持ち方ひとつが作り上げるのであります。 『信仰覚書』 出口日出麿 これまでのお示し 一歩一歩の歩みに全力をそそぐ https
七むずかしい理屈を知っている人は仰山いる。しかも彼らは、何もなし得ない。せいぜい、書物をあらわしたりするくらいのものだ。 学識という点からいうと、キリストにどれだけの素養があったか。ナポレオン、ジャンヌダークにどれだけの素養があったか。 人間の魂を、直接、うごかすものは何か?それは、人間の、より偉大なる魂である。 理屈はもう結構だ。理屈を超越した偉人が出さえすればよい。目に一丁字なくて結構だ。目にもの見せてくれる真人さえ出れば文句はない。 こんな紛糾した世の中には
何事でも、出来てしまえば思ったほどでもないもので、その前に、いろいろと勝手な想像をめぐらすことによって、 楽しくもあり、まt悲しくもあるのだ。 そして、人間の真の生活は主観であるから、その人の心の持ち方ひとつで、世の中は楽しくも苦しくもなるというのである。 他人から見たら、乞食のような生活をしていても、心の中に天国があれば、見るもの聞くもの、天国のものばかりである。これに反して、外見は王侯のような生活をしていても、心が闇にとざされていたら、見るもの聞くもの、黒い影ならざ
神さまは無邪気をもっともお喜びになる。気どったり、様子ぶったり、威張ったり、強がったりするのが大嫌いである。奪ったり、打ったり、はったり、勝ったりでは、まるで合戦だ。神の国には合戦はない。 心の内と身の外との一致した純真な、他人に対して露ほどの邪気もない人は、きっと天国者だ、しあわせ者だ、及第者だ。 執拗な、利己心一方の人間ほど始末におえぬものはない。それは決して、その人本来のみたまが、そうあるのではない。ちょっとした罪から、他の悪しき霊と感応して一緒になっているからであ
無智、暗愚なるわれわれは、ただただ皇大神を信仰しまつりて、みたまの借銭なしをなくしつくして天国に籍をおくことを念願とせざるべからず。 天国に籍をおける人のみたまは、この世においても、さしたる苦悩なくやすやすと一生をおくり得る反し、幽界に籍を有する現身は宿因の報いきたりて、いろいろと辛苦間難をするものなり。神諭に 「一代や二代のおわびでは、かなわぬご無礼なれど … 」とあるは、ここのことなり。(神諭とは大本の経典=大本神諭) されどこの度は、三界の大変革期なれば、多くの借