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理屈を好まぬおだやかな、ぼんやりとしたあたたかい心が神の心である。これに反して、落ち着きのない、冷やかな理屈っぽいのは、けものの心である。 人体は霊の宿泊所であって、自己の心と感応するいろいろな高級、低級霊を容れることが出来るのである。かように作られているのであるから致し方ない。だから、人は常に内心をつつしみ清めて、かりにも悪を思わないようにしなければならぬ。常に、われとわが心を省みて、悪魔のつけこむ隙のないようにしなければならぬ。 人とつき合っても、こっちから「あいつは
苦しい時には神を頼め、人が誠心誠意に祈願する時には、かならず神霊界へ通じるのである。 医師へ行くまえに、まず、うぶすなの神さまへ参れ。腕を組んで考え込むまえに、まず、暗祈黙祷せよ。やけくそを起こすまえに、まず、神言をあげよ。 神は見透しであり、神の慈悲は無限であり、神のみ力は無辺である。 つねに自力のみによって、すべてを解決せんともがくのは、ちょうど、赤児が四斗俵をかたげんとし、蟻が汽車を曳かんとしてあせっているようなものである。自分の思慮と力とにおよばぬことは、どうし
自分を知るためには他人を知らざるべからず。周囲の人々と自分とを仔細に比較省察してみて、はじめて自分というものがクッキリと浮き出してくるなり。自分自身に自分がはっきりと分かってくれば、めったに、めくら滅法なふるまいはなきなり。適宜な道が進めるなり。進退、そのよろしきを得るなり。でしゃ張りもしなければ、怖じ気もせぬなり。 自分を知るということは、他人を知ることなり。他人を知ることは自分を知ることなり。 ○ どう考えても、お互いに容(ゆる)し合うということよりほかに、この世
自己の思いよう一つで、より苦しくもなれば、より楽しくもなり得るのである。 誰だって、より楽しくなりたいと願わないものはない。そうなるためには、まず第一条件として必要なことは、いかなる境遇に出会っても、つねに心を愉快に、はつらつと持つということである。 境遇の変転というものは、決して、自己の思うようにはゆかぬものであるけれども、この心の持ち方というものは、修養ひとつで常に可能なことである。 世の中の八九分までの人は「自分は随分苦労した」というものであるが、要するに、
今まで長い間、よい人が苦しんだのは、修養させられたのだ。誰でも自分で、一度、苦しんでみねば、他人のことが分からぬからだ。 苦しむための苦しみではなく、悟るための苦しみなのだ。ただそれだけだ。 出口日出麿著、『信仰覚書』第二巻 「進まねばならぬ」 これまでのお示し
自分がわからない人間は困ったものである。こういう人間にかぎって、むやみに傲然と構えてみたり、また、やたらに自己を無価値と考えたりしがちなものである。 自分の素質、天分、職命というものが、おぼろ気ながらもわかって来なくては、真の仕事はできるはずがない。 ○ たにんに、自己をよりよく見せようとする心が悪い。ありのままに自己を排出する心がけが必要だ。いや、時によっては、ありのまま以下に見られることに満足すべきだ。 出口日出麿著、『信仰覚書』、第一巻、ありのままの自己をだせ
七むずかしい理屈を知っている人は仰山いる。しかも彼らは、何もなし得ない。せいぜい、書物をあらわしたりするくらいのものだ。 学識という点からいうと、キリストにどれだけの素養があったか。ナポレオン、ジャンヌダークにどれだけの素養があったか。 人間の魂を、直接、うごかすものは何か?それは、人間の、より偉大なる魂である。 理屈はもう結構だ。理屈を超越した偉人が出さえすればよい。目に一丁字なくて結構だ。目にもの見せてくれる真人さえ出れば文句はない。 こんな紛糾した世の中には