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【人生ノートMagazine】一心が神に通じぬ筈は奈い

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人生ノートの中から信仰とはなんなのか、神さまの世界について触れている部分をまとめてみました。
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#祈り

【人生ノート291】 自分のごとく他人をあらしめんと思うのは間違っている。

なぜ平和が来ないのかいろんな深遠な道理もすでに説きつくされており、いかに生くべきかという問題も論じつくされており、自分はどうしたら第一いいかということも、たいていの人なら知りつくしているのである。 しかも、それと矛盾した生活を送っているのはなぜだろうか。 人々に、真の神をみとめる信仰がなく、真へすすむ勇気がないからである。 あまりに、現界的執着と肉体的我執にみたされているからである。 瞬間に堕して、永遠に目ざめぬからである。 一小局部のみにかかわって、大局を達観する

あなたも祈りなさい

寂しいでしょう辛いでしょう しかし辛抱して下さい もう少しです 明けぬ闇はなく 尽きぬ冬はありません 葉を食いしばってでも 土にかじりついてでも どうなりこうなりこの峠を越えて下さい “ああダメだ”などとは決して言わぬことです 東で行きつまったら西へ廻りなさい 南がふさがったら北へお逃げなさい 東西南北みなダメでしたら 暫くそこで臥ていて下さい 天地は毎日かわる 晴れくもり寒くあたたかく 日が出たり月が出たり 闇になったり朝が来たり 行きつま

苦しい時には神を頼め

苦しい時には神を頼め、人が誠心誠意に祈願する時には、かならず神霊界へ通じるのである。 医師へ行くまえに、まず、うぶすなの神さまへ参れ。腕を組んで考え込むまえに、まず、暗祈黙祷せよ。やけくそを起こすまえに、まず、神言をあげよ。 神は見透しであり、神の慈悲は無限であり、神のみ力は無辺である。 つねに自力のみによって、すべてを解決せんともがくのは、ちょうど、赤児が四斗俵をかたげんとし、蟻が汽車を曳かんとしてあせっているようなものである。自分の思慮と力とにおよばぬことは、どうし

公平に自他を観る

 自分を知るためには他人を知らざるべからず。周囲の人々と自分とを仔細に比較省察してみて、はじめて自分というものがクッキリと浮き出してくるなり。自分自身に自分がはっきりと分かってくれば、めったに、めくら滅法なふるまいはなきなり。適宜な道が進めるなり。進退、そのよろしきを得るなり。でしゃ張りもしなければ、怖じ気もせぬなり。 自分を知るということは、他人を知ることなり。他人を知ることは自分を知ることなり。 ○ どう考えても、お互いに容(ゆる)し合うということよりほかに、この世

心の持ち方

自己の思いよう一つで、より苦しくもなれば、より楽しくもなり得るのである。  誰だって、より楽しくなりたいと願わないものはない。そうなるためには、まず第一条件として必要なことは、いかなる境遇に出会っても、つねに心を愉快に、はつらつと持つということである。  境遇の変転というものは、決して、自己の思うようにはゆかぬものであるけれども、この心の持ち方というものは、修養ひとつで常に可能なことである。  世の中の八九分までの人は「自分は随分苦労した」というものであるが、要するに、

実地に呼吸を飲み込め

何かしていなければならぬ。そして、今やっていることに一心にならねばならぬ。仕事に全心身を打ち込んで、それを完成さすことに愉快を持つようにならねばならぬ。 苦しい時、くしゃくしゃする時でも、何か、とにかく、一生懸命に仕事をしているならば、知らずしらず時間が経って、その難関を知らず知らず通過することができるものである。ジッとしていて考えてばかりいるのは、かえって、その苦悩をますばかりでなんにもならない。どんな平凡なこと、小さいこと、たとえば、指先一つを僅かばかり動かす仕事でもよ

その日その時のベストを尽くして

何事も神意にまかして、あせらず、あわてず、その日その時のベストをつくして、一生を一日のごとくに悠々とおくる工夫をせねばなりません。 天国へ行くのも地獄へ落つるのも、みな自分自身が平素からの心の状態がつもりつもって、必然的にそうなるまででありまして、けっして、神さまが連れて行かれるものでも、また社会がそう強いるものでもありません。みな、みずからの心の持ち方ひとつが作り上げるのであります。 『信仰覚書』 出口日出麿 これまでのお示し 一歩一歩の歩みに全力をそそぐ https

神のひとり子、出でよ

七むずかしい理屈を知っている人は仰山いる。しかも彼らは、何もなし得ない。せいぜい、書物をあらわしたりするくらいのものだ。 学識という点からいうと、キリストにどれだけの素養があったか。ナポレオン、ジャンヌダークにどれだけの素養があったか。 人間の魂を、直接、うごかすものは何か?それは、人間の、より偉大なる魂である。 理屈はもう結構だ。理屈を超越した偉人が出さえすればよい。目に一丁字なくて結構だ。目にもの見せてくれる真人さえ出れば文句はない。 こんな紛糾した世の中には

生きていることに興味を持つこと

何事でも、出来てしまえば思ったほどでもないもので、その前に、いろいろと勝手な想像をめぐらすことによって、 楽しくもあり、まt悲しくもあるのだ。 そして、人間の真の生活は主観であるから、その人の心の持ち方ひとつで、世の中は楽しくも苦しくもなるというのである。 他人から見たら、乞食のような生活をしていても、心の中に天国があれば、見るもの聞くもの、天国のものばかりである。これに反して、外見は王侯のような生活をしていても、心が闇にとざされていたら、見るもの聞くもの、黒い影ならざ

みたまの一大浮沈期

無智、暗愚なるわれわれは、ただただ皇大神を信仰しまつりて、みたまの借銭なしをなくしつくして天国に籍をおくことを念願とせざるべからず。 天国に籍をおける人のみたまは、この世においても、さしたる苦悩なくやすやすと一生をおくり得る反し、幽界に籍を有する現身は宿因の報いきたりて、いろいろと辛苦間難をするものなり。神諭に 「一代や二代のおわびでは、かなわぬご無礼なれど … 」とあるは、ここのことなり。(神諭とは大本の経典=大本神諭) されどこの度は、三界の大変革期なれば、多くの借