随想好日 第十六話『芸術と時間の相関性を突き詰めると作者の精神世界が覗ける…これはアブナくも愛せるひととき』
はじめに チョット長い。そして行ったり来たりが多い。文体も読みにくい。それでも読んでくれる人は覚悟して読んで。伏して感謝します。
てかね、後半は酷い。なんかもうゴチャゴチャ(笑)
駄目だわ、こういうのあげちゃ・・・つきあわせてごめんよ。
本文5600字程度
【画は遠近法という"奥行きと距離感"が時間の存在を知る手掛かりとなる。小説は原稿用紙を重ねた枚数がそれとなるだろう。それぞれの"奥行きと距離感"の中、過去・現在・未来を何処に置くかは顕し手に委ねられるわけだがその調和こそが美の深淵に近づく技とも思える。我がことであるが程遠い。
どの道、時間の移ろいをどの様に感じさせることが出来るかが画であり小説でありという芸術。作者の腕の見せ所なのだろう。時間が感じられないものは残念だが平面にうつり、感動を引き出すには残高不足の感は否めない。
とき折り目にすることでもあるのだが、ストーリーの展開が遅いという言葉を用い評価を試みたものに出くわすことがある。何を期待しているかと思えば……という気持ちになることもたまにある。
こういう見かたに私などが想うことは「画は読めぬか」となる。シロウトの主観なので気にしないで欲しい。思っていることを書いているだけだ。
画は原則動かない。止まっている、静止している画をながむるのである。
時間の使い方は別次元の話しであることは知っていて損はないだろう。起承転結と云われることだが、起結ありきのものは承も転も中空をフワフワと漂う存在と眺めておいても良さそうだ。無暗に起承転結と読もうとすると壊れて見える。云ったものの、この辺も顕し手の見せ方によることは確かなのだが 顕し手のテーマに委ねるところ。これを旅することは何とも危なかしく、何とも心惹かれるところであり、愛しい時間となるではないか。
あ~ぁ、やばいヤバイ(笑) ムクムクしてる。お帰りは右隅バッテンマークをポチっとwww 早めにね】
■ただね・・・騙されてはいけない・・・
フリージアという花は、高い位置で花を咲かせているのは、実は、一番"根"に近い部分であり、本来の高い位置は、首を垂れた下の方なのだ__________。目に見える気がしたものだけが真実ではない。よくよく見なければ、感じなければ見落とすことは少なくない。
目に見えないものへの思索を深めることが出来るのが人なのだろう。
『我々は我々が見るところに執着するのではなくそれを超えた思索に赴かねばならない』アビ・ヴァールブルク
■ダ・ヴィンチファンであればひょっとすると一度は目にして頂けているかもしれない画像であり「俺流解析画像」だ。ここnoteにも一番最初に投げ込んだ原稿が「俺流解析final draft研究ノート稿」だった。2011年の七月以降から現在に至る迄、プロからアマまで、三万人を超えるアクセスを集めた原稿の一本であり、例によって手あたり次第、所かまわず向こうに回して自説の展開を試みた解析だったが、各方面から随分オモシロがっていただけた。興味を持っていただけたら、Linkを読んで欲しい。
人間の目は思っているほどあてにはならない。芸術家に云わせるとそんなところに落ち着きそうには思えないだろうか。
さて、画にはタイトルがつきものだ。この画には『サルバトール・ムンディ』とつけられている。日本語に直すと「救世主(世界を救いし者)」となるのだが、ご存知のように絵画にタイトルが付けられるようになったのは18世紀に入ってからであり、それまでは描き手がタイトルをつけることは無かったことが定説となっている。
即ち、書き手が付けたかったであろうタイトルかどうかは分からないのである。
オモシロい話を一つ紹介させて頂くのなら、上野恩賜公園に国立西洋美術館がある。そこに「地獄の門」があることはご存じだろう。地獄の門に関してここで紹介すると、あと1200字は増えることになるからして先を急ぐ。
地獄の門の上部に据え付けられているのが俗にいう「考える人」なのだが、当のロダン。この考える人に「Poète(詩人)」という名前を付けていたのである。が後年、ロダンの死後、作品がフランス政府の管理下に置かれ、政府からの依頼で鋳造することになった際、この名前が「鋳造職人」によって"考える人"と改編された経緯があるのである。
この辺はwikiにも出ているので興味がある人は読んでみて欲しい。
■少し前にカラヴァッジョ展を楽しませて頂いた。原罪を骸の中に閉じ込めた儘の創作活動は、狂気と正気の狭間に潜む"マリア"への思慕。カラヴァッジョの信仰姿勢が観えてならなかった。これは極めて客観性に乏しく、飽くまでもわたしの思い込みだ。何等かの根拠に裏打ちされたものでもない。それも"私"の思い出であり、画の見方から引き出した結果である。
あべのハルカス・カラヴァッジョ展の他作「創成期第十九章 ロトと娘たち」ジョバンニ・フランチェスコ・グエリエーリ作素晴らしくもドラマティックな仕上がりとなっており、鑑るものを物語の中に引き込む力感に溢れた作品だった。通常時は、ローマのボルゲーゼ美術館に収蔵されているようなので、落ち着いたころに是非鑑に行ってもらいたいところだ。
そしてもう一枚紹介しておこう。
この画に関しては、多くを語るべきではないと自分にブレーキを掛けることが簡単なのだ。実はこの画、世界的にも論争の種を抱えており、そのもっとも知られた内容が「誰がマタイなのか ?」ということなのである。
その上で書かせてもらうが、神戸大学大学院に宮下規久朗教授がおられる。日本のカラヴァッジョ研究の……、いや世界でも著名な研究者の一人として知られ、氏の仮説もその論争のさ中大いに存在感を高めておられる。
わたしにとってもカラヴァッジョ作品や様々な宗教画の作品を勉強させて頂く上でのバイブルとなっている。様々な本が出ているので画に興味がある方にはお薦めしておきたい。とても平易な言葉を使われており読みやすい。
さて、話を時間に戻そう。
ここで提案を試みたいのだが、二枚のそれぞれの画をみたとき皆さんはどの様に観られるのだろう。
わたしの場合として紹介申し上げるのなら、画のシーンは「現在」と見ることにしている。 したがって、それぞれの画には『過去と未来』があるはずなのだ。
どの様な過去がロトの娘をアレほど饒舌に駆り立てたのか。
どの様な過去がロトをアレほど悩ましい苦悩の深淵に落とし込んだのか。
現在は、過去があってそれに至る。
では、次におこることはどの様な行動であり、心の動きなのか。画は、一枚の中からどれほどの物語を引き出せるかという楽しみ方もある。
燃え盛る炎も消えるのだ。
闇の支配が訪れるのである。
マタイの召命も同じことが云える。入ってきたキリストが指をさす前にどの様な遣り取り(過去)があり、その後、誰がどの様な行動をしたであろうか。
キリストの指を見て欲しい。
人間の指はどの様な時にあのような形になるだろう。
指し示すときか
指示したあとか
人々の反応はどのような時にあのようになるだろう
指し示されようとするときか
指し示されたあとか
画の中には"時間"がある。
タロットカード一枚の中にすら時間がある。
その時間を分かりやすく表すために編み出されたものが「遠近法」と考えて間違いではないだろう。
人間は"時間"が動かない所からは原則感動は引き出せない生き物なのだ。何故なら時間は流れ動くことを知っているからに他ならない。
だから時として、展開が遅いという言葉に及ぶのである。
ただ一つだけ、私の持つ感覚から補足を加える。
夜の景色、星と月を描いた景色というものについて申し上げるなら、その画のシーンを現在と観ることには危うさが付きまうとことは知っておくとふり幅が広がるのかもしれない。
なぜか…… 星から観れば「現在」は未来にもなり過去にもなり得る。描き手から観れば星は過去になる。同時に、今の科学では星の位置によって、時間、時期を明確に割り出すことが出来るようになっているからである。
主題がどこにあるかという旅はオモシロイ。
したがい、画家にとって夜のシーンほど描くのが難しい画はないだろうと私が考える所以なのだが、それを裏付けるように、星と月をはじめとした夜の景色の画は少ないのである。
何を顕そうとするのか。現在なのか、過去なのか未来なのか。その物語の前後にどの様な物語が潜み、どの様な結論へと誘おとするのか。
美の、そして芸術のダイナミズムは私にとってはそこにある。
書くまでもないことだが、小説も私にとっては同じだ。
時間の移ろいが感じられないものは退屈なのだ。
ただし、止めた時間の意味合い。
あの世時間、この世時間は足を止めた方が分かりやすいかもしれない。
あの世時間、この世時間を書き顕そうとするものは、絵画の「星月夜」に通じてくるのである。
人それぞれ、価値を見出すことろは、異なるのはあたりまえのこと。
幸か不幸か(笑)筆者の場合は、たまたま"こっち方面"が著しく(個人の中で)発達した領域ということに過ぎないのである。
人様のことは知らぬ。筆者が絵画などの芸術に触れる際は、必ず"奥行き"をイメージすることとしている。小説を読んでもである。
【過去、現在、未来は、"奥行き"によって顕すことが可能である】というのが基本的な考え方だ。
時間の移ろいは、奥行きでイメージした方が作者の意図(テーマ)に近づけると想っているからに他ならない。
時間の移ろいを"横軸"で顕した時、観る者は、作者の精神世界の時間の移ろいを旅することは出来ず、極めて平面的であり、薄っぺらなものとなると想っている。画というものは、原則平面だ。しかし、その平面な画の中に、作者は遠近法という、今となっては当たり前の技法を駆使しながら、【タイトル】を描き上げる。
しかし、それは、概ね【テーマ】はではない。
河井寛次郎 作 「タイトル 草花図編壺」
タイトルとテーマの違いと云えば、陶芸作品にも同じことが言えるだろう。この二日にわたって紹介した、河井寛次郎の作品に触れ、タイトルとテーマが同一であると考えることが出来る御仁は、正直者だろうし素直なお人柄と云えるのだろう。
私の様に、作者の精神世界への旅を試みることこそ、ダイナミズムと捉える様な屈折した人間にとっては、タイトルとテーマは違って至極当たり前ということになる。
ここで話を"遠近と時間"にもう一度戻す。遠近とは、原始的(シンプル)時間の単位そのものである~と筆者は考えている。
晴れた夜空を見上げると、瞬く星が散らばる。私達が見ている星は、宇宙物理学上は、過去のものを眺めていると定義づけされている。これは、画を眺める際に通じるところが大きい。
宇宙とは奥行き(遠近)を何光年という単位で計る。即ち、時間とは"奥行き"で計ることが出来る。従って、絵画に観る遠近法は奥行きであり、そこから過去現在未来という存在を炙り出すことが可能ということになり、寧ろ、その表現が覗えない画は平面的であり移ろい、変遷とは無縁でありわたしの興味対象と成り得ることは無い。
不染鉄の画に、飛びぬけた才能を感じさせる所以は、奥行きに留まらず、高低を俯瞰した作品に挑戦していることであり、奥行きを時間軸としたとき、高低が顕すものを鑑賞者に投げかけていると想えるところなのだ。
下の不染鉄の「夢殿」を眺めてもらいたい。
作 不染鉄 夢殿
なにか得体のしれない、違和感を感じられるのではないだろうか。
なにか、この世のものならざる存在感を感じないだろうか。
それは、奥行き(時間軸)に、高低(縦軸)を僅かに狂わせたことによる効果だろう。
"あの距離""あの位置"から、あの高さのものを眺めた時。
目に結ぶ像は、あの画とは違ったものになるはずなのだ。不染鉄は高低差を表現することにより、時間とは"違った世界"を表現することを試みている。
それが何であるかを探る旅というのは、"ある種の狂気"と背中合わせの旅でもあり、カラヴァッジョの持つ狂気"原罪と被昇天"に通じていくと想えるのである。
ゴッホの手による、星月夜の代表的5作を是非眺めてみるのもオモシロい。ゴッホは、星に何を観たのだろう。月に何を想ったのだろう。目の高さで営まれる姿を"現在"とするなら、空の奥行きに浮かぶ星月は過去なのだろうか、未来なのだろうか。
夜の星月から眺めた糸杉や、夜のカフェや、ローヌの流れは過去なのだろうか、未来なのだろうか。
ゴッホは、目の高さを「現在」としたのだろうか。奥行きの先にあるものを現在として眺めた時、目の高さにあるものは、どの様な時間を顕しているのだろう。
「我々は、我々が観るところのものに執着するのではなく、それを超えた思索に赴かねばならない。」ヴァールブルクコレクション・シンボリックイメージ前書きより
左からローヌの星月夜(星降る夜) 夜のカフェテラス
言葉の表現で「奥行き(時間軸)」を感じさせることが出来るような小説を描いてみたい。
何時何分…… などと書いているようでは話にならんのである。
※わたしの持つ 神戸大学大学院・宮下規久朗著作集
■カラヴァッジョへの旅・天才画家の光と闇 角川選書
■闇の美術史・カラヴァッジョの水脈 岩波書店
■その時西洋では・時代で比べる日本美術と西洋美術 小学館
■美術の力・表現の原点を辿る 光文社
■聖母の美術全史 筑摩書房
■美術は宗教を超えるか PHP 研究所
他(たしか8冊あったはずだが、二冊見当たらない……なぜだろ)
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