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東京路地紀行 37 港区乃木坂
今夜は乃木坂へ。
と言っても乃木坂という住所はありません。
六本木xx丁目か、赤坂xx丁目か、のどちらか。
ちょうど六本木と赤坂を分け隔てる谷道が乃木坂とよばれる一帯です。
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いまや乃木坂といえば、某有名女性ユニットを思い浮かべますが、乃木坂の「乃木」は乃木希典大将(*1)の自宅が坂の近くにあったことから名づけられました。自宅があった場所は今は乃木神社になっています。
乃木坂の前は何という名前だったの?
それは幽霊坂でした。
樹々が生い茂って昼なお暗し、夜は真っ暗な坂道で幽霊が出そうという感じだったのでしょう。
いまでは坂の上も下もコンクリートの広い道に覆われて神社の敷地以外には樹々は見当たりません。これでは幽霊が潜む木陰もなければ、地の下から湧き出て通行人を脅そうにもコンクリートが硬くて出てこれませんね。
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さて、長い前置きはこれくらいにして、
今回歩くのはこの坂道ではなく、乃木坂陸橋から
少し赤坂方向へ歩いたところにある階段路地です。
地下を地下鉄千代田線が走っている赤坂通りから
脇の路地にはいり、奥へ歩いていくとそれはあります。
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階段路地は片側には民家が続きますが、反対側は小さな森。私有地なので立ち入りできません。
その間の狭い空間を上の台地へ向かって階段がのびています。
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のぼるにしたがい、左手は民家から大谷石積みの擁壁に変わり、右側は緑の壁に変わり、挟み込まれていくような感じになっていきます。
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そして、左へ少し曲がるとまた上り階段。
その先は台地の上に出て、開けた場所へ行きつきます。
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民家はあるもののひとけがほとんどないので、昼間でもここを通る人は少なさそうですが、夜になったらなおさらです。広い場所に出るとほっと安心のため息が出てきそうです。
この夜はのぼりきったら、上のほうから欧米系の外国人家族が階段を下りていきました。外国人には珍しさのほうが怖さよりも優先するのかもしれないです。
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赤坂にはにぎやかな横丁はいくつもありますが、路地なんてないんじゃないの、そもそも民家があるような街じゃないよね、と思っていましたが、歩いてみると住宅も住人も多く、彼らの住まいをつなぐ路地がいくつか残っていることがわかりました。赤坂を見る目をちょっと変わってきました。
(*1)乃木希典について
長州藩出身の明治時代の陸軍軍人。生まれたのは毛利藩邸のあった六本木。いまは六本木ヒルズに近いさくら坂の途中にある児童遊園に誕生の碑が残っています。
軍人としての才能は必ずしも華やかではなかったようで、西郷隆盛を担ぎ上げた鹿児島薩摩藩士と明治政府軍の西南戦争では軍旗を奪われ、切腹も覚悟したとか。このとき明治天皇に引き留められ、その後は明治天皇のために軍人の道を歩んでいったサムライ的精神の持ち主だったようです。
日清戦争では師団長として、日露戦争では軍司令官として戦場へ。日露戦争では203高地の攻防で有名です。ロシア軍の強力な火力の前に数回の突撃を繰り返すも陣地を奪取できず、結果的には日本国内で海防用に設置してあった臼砲を持ってきてロシア軍陣地を破壊するに至ったという逸話もあり、作戦もなく精神論で突撃する旧型軍人と思われていたそうです。実際にはそんなこともなかったようですが。悲劇なのはこの戦争で二人の息子を失ったこと。それでも明治天皇のために戦い続けた希典でした。戦後は学習院の校長として勤めあげました。これも自分の命を救ってくれた明治天皇への恩返しだったのでしょうか。そして天皇崩御後、乃木邸で夫人とともに殉死しました。
現代人の感覚からすれば、いろいろ言いたいところはあるでしょうが、軍旗を奪われるという失態を犯しながらも切腹を許さずもう一度生きる機会を与えてくれた天皇に忠義を尽くすことが彼の余生だったのかもしれません。