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亀井りゅうきゅう守

りゅうきゅう、琉球というと現在の沖縄なのですが、何故か大分の郷土料理にその名が付いたものあり。
琉球守を通称として名乗った戦国武将を妄想しながら、りゅうきゅうを料理した記録。


材料

鰹の刺身 1柵
大葉   3枚
葱    青い所
生姜   半欠け
醤油   大匙2
味醂   大匙1
酒    大匙1
摺り胡麻 たっぷり
柚子胡椒 お好みで

弘治三年(1557)出雲の尼子家家臣、湯永綱の長男として誕生した新十郎の最初の名乗りは湯國綱。
この頃の尼子家は毛利家に圧されて退潮気味。ついに十五歳の時に主家滅亡。流浪を余儀なくされる。
やがて耳にしたのが、山中鹿介が尼子勝久を担いでの尼子再興の旗揚げ。
そこへ馳せ参じる。


刺身を食べやすい大きさに切る。

槍の名人だったらしい國綱、鹿介に見込まれて再興軍参加。
そればかりか鹿介は自分の娘を嫁がせる。
鹿介の妻は尼子家の重臣、亀井家の出身。そこで跡継ぎがなく絶えそうになっていた亀井の名跡をも継がせる。これにて亀井滋矩(これのり)となる。
余程、見所があったということか。
出雲奪還、尼子家再興を目指して戦うものの、強大になった毛利家には単独ではとても抵抗出来ない。
強力な後ろ盾が必要。そこで中国地方進出を目指してきた織田家に接近。
中国地方指揮官である羽柴秀吉の下で、毛利家と戦うことに。


大葉と葱を適当に切る。

しかし何故か滋矩は秀吉傘下から離れて明智光秀の許で松永久秀と戦った。
有能だったので、そちらにスカウトされたか或いは尼子再興軍全てが秀吉旗下では万一の時に全滅となるので、一部を他家に預けるようにという配慮?
実際、上月城を守っていた尼子勝久や山中鹿介は敵中に孤立。織田軍も援軍を送れずという事態に。
この時、滋矩は密かに上月城に潜入して鹿介に対面。共に戦いたいと申し出たという話があります。
鹿介はこれを断る。妄想するに、尼子旧臣達の後事を託されたのではないか。
「おまえは生き延びて、尼子旧臣を取りまとめて出雲奪還を果たしてくれ」
という風に。


酒と味醂を沸騰させてアルコールを飛ばす。

尼子勝久は自刃。鹿介は処刑。
滋矩は尼子旧臣達を取りまとめて、改めて秀吉傘下に。
鹿介らがいなくなった三年後の天正九年(1581)に鳥取城攻略の戦功で因幡鹿野城主に任じられて、一万三千五百石を知行する大名に。
その翌年に起こったのが本能寺の変。
大返しを行い、上方に戻る秀吉軍ですが、滋矩は後詰めとして鹿野城に残留。毛利が追撃してきたら、鹿介の仇とばかりに戦う腹積もり。
秀吉の心中を妄想すると、滋矩は一時、光秀の下に居たから裏切るかもしれないと危惧?


生姜を摺り下ろす。

戦後、秀吉から恩賞の望みを問われた滋矩は
「琉球が欲しい」と返答。
尼子再興軍が目指していた出雲ではなく?
早くから世界進出を考えていたからと言う人がいますが、滋矩なりの深謀遠慮だったのではないか。
琉球というのは当時は日本ではなく、別の王国。
それを攻め取ってみせると大言壮語した方が、大きなことを好む秀吉に気に入られる。
読み通りというべきか、
亀井琉球守殿と書いた扇に秀吉は花押と日付を書いて与えた。手形代わりということか。


生姜、醤油、酒と味醂を混ぜ合わせる。

秀吉政権下では㠀津家が琉球王国との取次を務めたので結局、空手形。
現実的な名乗りとして、滋矩は武蔵守を通称とする。
秀吉は天下統一後、唐入り、一般的に言われる朝鮮出兵を号令。
滋矩も勇んで渡海。この頃には薹州守を名乗り始めた。
薹州というのは中国浙江省台州。
秀吉が最終的な目標としていたのは明國征服。滋矩は明國の薹州を貰うと宣言したようなもの。
現代人の中には、朝鮮出兵と呼ばれる対外戦争は耄碌した秀吉の誇大妄想から始まったように思う人が多いようですが、それは違う。
勝算もあり、秀吉だけではなく多くの武士も勇んで海外領土獲得を目指していた。
滋矩が薹州守を名乗ったのもそれを示している。


材料をすべて混ぜ合わせる。

歴史家の井沢元彦が指摘することですが、十分な勝算があったからこその対外戦争。
当時の日本は鉄砲の装備率は世界一。金銀の鉱山開発が進んで言わばゴールドラッシュ。軍資金もたっぷり。しかも長年の戦乱で鍛えられた武士という優秀な戦士達。
戦國時代は実力次第で出世は思いのまま。滋矩も流浪の身から大名に。それどころか氏素性もよく知れない秀吉は関白という天皇に次ぐ地位に。
俺も続けとイケイケムードだった。
秀吉の死により明國征服は成らなかったために、そうした人達は沈黙。
やっぱりな、無謀な戦争だと思った。俺は最初から反対だったんだ。などと後からしたり顔で言う人が多かったということでしょう。


亀井りゅうきゅう守

一晩、冷蔵庫で冷やして完成。
鰹に限らず他の魚でも美味しく頂けると思います。
胡麻たっぷりで抗酸化物質もたっぷり。葱のアリシンが食欲増進。この逸品のタンパク源である鰹は赤い、つまり鉄分豊富。
甘目な生姜醤油がよく絡んで生臭さも消える。。

いつの時代でも上手くいっている時には尻馬に乗っても一旦、失敗に終わったら、自分は最初から反対だったんだと後出しじゃんけんみたいなことを言い出す人は存在。
当時は報道とか出版がないから、威勢よい意見を書いた記録とか日記は後から抹消したのだろうと妄想。
現代においても、いずれ567とかワクワクがインチキでしたとバレた時にはきっと、ほら、やっぱり。俺は最初からおかしいと思ってたんだと言い出す輩が必ず出て来る。そんな連中に限って、真っ先に駐車の列に並んでいた筈。人間の言動は何百年たっても変わらないということになる。
歴史を學ぶ意味は過去を鏡として今や未来を考えること。
コ▢ナ禍などという茶番デミックの歴史、世間が忘れても私は絶対に忘れない。


柚子胡椒を付けても美味い。

話を亀井滋矩に戻します。
滋矩は軍船を率いて戦いましたが、李舜臣率いる朝鮮軍に敗れ、船を奪われる。その船には秀吉から貰った扇。例の亀井琉球守殿と書かれた奴です。
このことは朝鮮側の記録にも遺されている。つまり扇の実在を裏付ける。
琉球を所望した時はそうでもなかったかもしれないが、薹州守を名乗った頃には嘘から出た誠と言うべきか、海外領土獲得に本気になっていたように思える。
秀吉死後は家康に接近。
関ヶ原でも東軍。
関ヶ原本戦後は人生で二度目の鳥取城攻め。この時に敵将を寝返らせて城下焼き討ち。これが攻略に繋がったが、後に家康の不興を買ったと言われるが、恐らくは裏切った敵将を始末するために家康と組んだ芝居。
寝返った斎村政広のみが焼き討ちの首謀者として切腹。裏切者は生かしておいても、いずれまた裏切ると思われたのでしょう。
一方、滋矩は功績により加増を受けて鹿野藩三万八千石の初代藩主に。
子孫は津和野へ加増転封となり、近世大名としての命脈を明治維新まで全う。
尼子旧臣を纏め、海の向こうにまで夢を広げた亀井滋矩を妄想しながら、亀井りゅうきゅう守をご馳走様でした。

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