油小路かに玉
天津丼と言えば、かに玉に茶色な餡をかけた料理。というのが一般的ですが、昔、近所にあった町中華では白い餡をかけた天津丼を提供していました。
実は天津丼って純粋な中華料理ではなく、横浜生まれ。それも中華街ではなく伊勢佐木町にあったお店が始めたと聞いています。
白い餡はまだハードルが高い気がしたので、白いタレをかけたかに玉を試作しながら、新選組のことを妄想した記録。
卵 4個
韮 半把
かにかま 適当
塩麹 大匙3
胡麻油 大匙2
蜂蜜 小匙1
水 大匙2
片栗粉 適量
塩麹に胡麻油を混ぜることで旨味を向上させようと思案。油に麹、油小路ということで、油小路の変とそのきっかけになった伊東甲子太郎を妄想しながら料理開始。
天保五年(1835)に常陸志筑藩に生まれた鈴木大蔵が後の伊東甲子太郎。
この時代に生まれ、国を憂える者はほぼ皆、尊王攘夷思想に染まる。大蔵も常陸出身ということから、水戸学を納める。過激な尊攘派集団、天狗党に加わろうとしたものの、弾圧されそうな気配を察して距離を取る。出処進退については鼻が利く。剣術は神道無念流を納め、江戸へ出ると、北辰一刀流の伊東道場に入門。頭角を表し、道場主に気に入られて娘婿。伊東姓に。
深川にあった伊東道場には藤堂平助が出入りしていました。後の新選組八番隊長。
藤堂は試衛館の近藤勇達と共に新選組の母体となる浪士組に応募して上洛。この時には大蔵は同行せず。
やがて新選組となった彼等は都で活躍。その噂は江戸にまで届いたことでしょう。
元治元年(1864)十月、凱旋するかのように江戸に戻った土方歳三らは新規隊士募集。その時に藤堂平助の仲介により、伊東大蔵は新選組に加入。
学問もあり、道場主で腕も立つということから最初から幹部待遇。参謀、そして文学師範という役職に就任。
この年の干支は「甲子」この干支の年は新たなことが始まるという意味があるそうで、元治と改元されたのもそのためと思います。
伊東大蔵も新たな人生の門出という意味を込めて、伊東甲子太郎と改名。
尊王攘夷の志を抱いて、新選組に加わったものの、実態を知ると甲子太郎は後悔。
会津藩や幕府の手先として、尊王攘夷という志は同じ筈の長州の者を追い回す日々。
内部の粛清に明け暮れる新選組内部にも、思ったのと違うと感じた?
新選組には局中法度が存在。その中の一条には「局を脱するを許さず」という鉄の掟。
総長という役付きだった山南敬助でさえも、その掟から逃れられずに切腹。それを間近で見たであろう甲子太郎。それを逃れる術を編み出す。
自分と共に上洛した面々を率いて、崩御された孝明天皇の御陵を守る御陵衛士になると言い出しました。
薩摩に近づき、情報を新選組に流すという条件で、円満な離脱を図る。近藤勇はこの提案を受け入れて、これ以後は相互に隊士を離脱させたり受け入れたりはしないという約束で分離成功。
高台寺に屯所を置いたことから、御陵衛士は高台寺党とも呼ばれます。
これが慶應三年(1867)のこと。それから甲子太郎は土佐の中岡慎太郎らとも交流。その延長線上には坂本龍馬。
龍馬と面会した甲子太郎、
「新選組が貴殿の命を狙っているから、気を付けられよ」
と忠告。
龍馬はこれを意に介しなかった。というより、元新選組が何を言っているかと思ったか。
これは龍馬に疑心暗鬼を起こさせる目的で、カマを掛けた?
それどころか、龍馬を斬ったのは伊東甲子太郎だという説もあります。私自身の考えは違います。詳しくはこちら。↓
龍馬が暗殺された三日後、甲子太郎は近藤勇の妾宅に招かれて会食。
和やかに酒を酌み交わして、今後のことを相談。
何しろ、この時には既に大政奉還も為されて、幕府もどうなるかわからない。新選組も身の振り方を誤ると危ういことになると、近藤は伊東に相談。
つまり伊東のひも付き、薩摩や土佐に近づく算段?
近藤にそんな頼み事をされて、すっかりいい機嫌で帰路に着いた甲子太郎。これからは新選組すらも自分が制御出来ると考えていた?
本光寺という寺の門前まで来た時、暗がりから突き出された槍が肩を貫通。顔にまで刺さる。
突き出したのは、人斬り鍬次郎という異名がある新選組隊士、大石鍬次郎。
それを合図に飛び掛かる伏兵。集団戦法は新選組の十八番。
「奸族ばら」と絶叫する甲子太郎ですが、最初の槍が既に深手。ずたずたに切り裂かれる。
ということで、こちらも切り裂いた。
胡麻油の風味が塩麹を引き立てる。隠し味的に加えた蜂蜜が柔らかな甘味を加えて、塩味が更にマイルドに。
カニカマですが、出来るだけ添加物が入っていない物を選びました。赤い色も着色料ではなく、トマトのリコピンで付けているとか。
卵たっぷり、タンパク質もたっぷり。韮にはベータカロチンやビタミンC、食物繊維も豊富。
甲子太郎の死体は近くの油小路まで引きずっていかれ、晒されました。そして高台寺には伊東遭難の知らせ。ただ、襲われて怪我をして休んでいると告げ、迎えに来るようにと。
それを聞いた藤堂平助を始めとする7人の御陵衛士達、油小路に急行。
待ち構えていた新選組の襲撃。
藤堂平助ら、3名は此処で死亡。4人は乱刃を搔い潜り逃亡。
龍馬暗殺の三日後に起こった油小路の変。
原因は恐らく、龍馬暗殺の報復。つまり新選組は龍馬を守ろうとしていたが、それが果たせなかったばかりか、元新選組の伊東がそれに関与していたことから、怒り心頭で近藤は伊東を暗殺。それが事件の背景と思います。
大政奉還の立役者であり、幕府や徳川家を戦にさらさずに平和裏に新たな政権を樹立させるために龍馬は必要な人材で、龍馬がヒタ同心と呼んでいた幕臣の永井尚志は近藤勇にそれとなく龍馬を警固するように命じていた。
それが水泡に帰したことへの報復が伊東達の殺害。
この時に逃げおおせた御陵衛士が後に近藤を銃撃。報復の連鎖ということ。
血で血を洗う抗争、複雑怪奇な状況が続いた幕末。伊東甲子太郎は結局、そこを泳ぎ切ることが出来なかった。そんな妄想をしながら、油小路かに玉をご馳走様でした。
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