蕪と白虎鯛雑炊
近所の農家から頂いた蕪と鯛で雑炊を作りながら、生き残った白虎隊士のその後を妄想した記録。
実は白虎鯛雑炊、以前に作っています。
前回は鯛を最後に加えて半生っぽい仕上がりにしましたが、今回は鯛でしっかりと出汁を取り、白虎ならぬ白蕪を合わせてみた。
鯛のあら 頭と尻尾周辺。
蕪 1株
昆布 5センチ位
ご飯 1合位
塩麹 大匙2
柚子胡椒 小匙1
醤油 小匙1
卵 2個
会津若松市の飯森山の中腹に白虎隊士十九人の墓。
白虎隊の成り立ちについては上の記事を参照、といっても飛ぶのが面倒くさい人のために、その部分を再掲。(手抜き?)
朱雀、青龍、玄武、そして白虎という四神の名を冠した部隊が編制。
もっとも有名な白虎隊は数え齢十六から十七歳の子弟で編成。最初は予備兵力でしたが、戦況が悪化するにつれて彼等も前線へ。
一番隊は殿様、松平容保の護衛。
二番隊は戸ノ口原の戦いで敗走。負傷者と共に郊外の飯森山に落ち延びる。
そこから鶴ヶ城から煙が上がるのを見て落城したと思い、自刃を図った。と言われてきましたが実際はそうではなく、城へ入るべきかを議論した末、城へ入る前に捕まるようなことがあっては武士の恥として、虜囚の辱めを受けるよりは潔い最後を遂げることを選んだと言われる。
この時、自刃したのは十六人。しかし一人だけ生き残った人物。それが飯沼貞吉。前回の白虎鯛雑炊で取り上げた山川健次郎の従兄弟。
嘉永七年(1854)誕生なので戊辰戦争の頃はまだ十四歳。本来なら白虎隊に入隊するには年齢が足りませんが、サバを読んで志願。
歌人だった母は
「梓弓むかふ矢先はしげくともひきなかえしそ武士の道」
という歌を書いた短冊を貞吉の詰襟に縫い込んだ。
引き返すことなく武士として戦い抜きなさいと送り出した。
もはやこれまでと皆と共に貞吉も脇差で喉を突いた。
まだ十代の白虎隊士達の凄惨な自刃現場。そこへ忍び寄ったのは近隣の村人。
隊士達の刀や銃を奪うのが目的。そうして奪われた刀は後に古道具屋に売られ、隊士の母が後日、それを見つけて買い戻したという話もあります。
死體から身ぐるみ剥いでやれと暗躍していると、死にきれずにいた貞吉に氣付く。
死んだと思っていた上に、こそこそと盗みを働いていたので驚きも二倍。
助けてやろうと現場から連れ出したが、途中で諦めて山中に放置。
それを見つけて介抱したのは會津藩士の妻、印出ハツ。
その後、温泉がある塩川で匿われて治療を受けて一命を取り留めた。と言われていますが、この辺の事情は諸説あるようです。
會津藩士達は皆、武士の意地をかけて戰ったが、それ以外の階層の人達はどう思っていたのか。
田畑や町を荒らされて生業の妨げになるばかりか、武士ではない自分達までとばっちり。そう考えた百姓や町人も少なくなかったのではないか。だから死體から刀等を剥ぎ取ることも、せめてもの迷惑料ということか。
武士以外の者が皆、そうだった訳でもなく、マタギが新政府軍と戰い、かなり被害を与えた。
又、白虎隊士の死體も百姓達が密かに運び出して埋葬。
まだ十代の隊士達が自ら命を絶ったのを哀れに思う人もいた。
一方、それを官軍に密告する百姓がいて、掘り出されて放置された。
武士以外の人々の思いもそれぞれ。
生存した貞吉ですが、本当は村人が助けたのではないか。後難を恐れる村人を慮って、ハツが自分が見つけたということにした?
武士である貞吉も百姓に助けられたことを恥辱と思うだろうということで、偽装?
貞吉の傷が癒えた頃には會津藩は降伏。
若く見所があるということから、長州の楢崎頼三に引き取られて萩へ。こういう事情は従兄弟の山川健次郎に似ている。
「生き延びてよかったの」
と長州で聲を掛けられた時、貞吉は自害を図った。
自分だけが生き残ったことを申し訳なく或いは恥と思っていたのか。
「もう戰は終わった。長州だの會津だの言っている時ではない」と楢崎に諭されて、貞吉は行き直すことを決意。
それを示すために名前を貞雄に変えた。以後は貞雄と表記します。
独学で英語、福澤諭吉の『西洋事情』を読んで新たな知識や勉学に励む。
明治三年(1870)に静岡学問所へ。そして自分の人生をかける新たな技術に出會う。それが電信。
モールス信号で情報や意志を遠くへ廣範囲に傳えることが出来る電信。工部省へ入り、電信技士となる。
長州の赤間ヶ關(下關市)を皮切りに電信網を張り巡らせるべく尽力。
工部省が逓信省に変わっても全国各地へ赴任。
日清戦争に従軍したが、貞雄の任務は戰闘よりも朝鮮半島に電信網を敷設すること。
この時、危険だから拳銃を携行するようにと言われたが、
「私は白虎隊で死んだ身だから」と断った。
もっとも長く煮た蕪が柔らかい。昆布と鯛の出汁がしっかりと出ている。ほんの少し加えた醤油と柚子胡椒が味を引き締める。
蕪の葉も味わいとアクセントを加えてくれる。
蕪の葉にはビタミンAが含まれる。正に捨てる所なし。
カリウムやビタミンCも摂取。
卵と鯛のタンパク質もたっぷり、食べ応えもたっぷり。
白虎隊時代のことは滅多に口にしなかった貞雄ですが後年、せがまれて止む無く喉の疵を見せたことがあった。
退職後は仙台に住み、人生を終えて、其処に葬られた。
「もしも飯森山に我が遺骨を埋葬したいという話があったら、これを使え」と貞雄は歯と髪を遺していた。
自刃した者や戰死した者合わせて十九人が葬られている墓地から少し離れた所に飯沼貞雄の分骨墓。此処には遺髪と歯が納められています。
そんな日が来ることを予見していたのか、或いは仲間達と共に眠りたいと考えていたのか。
人間、生かされている間はやるべきことがある。そのために命長らえたのだと貞雄は感じて、電信という新たな技術の普及に与えられた命を使った。
そんな妄想をしながら、蕪と白虎鯛雑炊をご馳走様でした。