見出し画像

彌助そう鱈チーズトマト鍋

織田信長が登場する映画やドラマを観ていると、晩年の信長の傍に真っ黑な大男がいることがある。
黑人侍?と呼ばれることもある人物について妄想しながら、洋風な鍋を料理した記録。


材料

スケソウダラ 1尾分
ピザ用チーズ 100g
大蒜     1欠け
玉葱     半分
トマト    2個
人参     半分
じゃがいも  2個
ブロッコリー 1/3
塩麹     大匙2
黒胡椒    適量
オリーブ油  大匙2

日本では大名達が群雄割拠していた戦國時代、世界は大航海時代。
特にスペインとポルトガルが植民地と奴隷獲得競争。
アフリカでは多くの黑人が捕獲されて奴隷として売買。
後に彌助と呼ばれることになる人物はアフリカのモザンビーク出身と言われる。


トマトをミキサーでジュースにする。

同時期、イエズス会は世界中に宣教師を送り出していた。未知の世界へ赴く宣教師達は護衛として黑人奴隷を伴った。
イタリア人宣教師ヴァリニャーノが伴った護衛が彌助。
モザンビークで出会ったのか、或いはポルトガル領だった印度のゴアで出会ったか。
当時のゴアには多くの奴隷がいて、その中にはハブシと呼ばれる軍事奴隷。
獰猛で鍛練を積んだ戰士だったと言われ、雇い主への忠誠心も高かったと言われる。彌助もハブシだったかもしれない。
ヴァリニャーノと共に彌助は天正七年(1580)に九州上陸。


オリーブ油で微塵切りの大蒜と薄切りの玉葱を炒める。

天正九年(1581)にヴァリニャーノ一行は都へ。
滞在任期が切れる前に当時、最大の実力者、織田信長に謁見して布教の許可を得る目的。
瀬戸内海を航行、堺に上陸して都へ。
黑い大男の噂は先に都に届いていた。
一目、その姿を見ようと教会堂へ詰めかけた人の数は千人。
ついに押し倒されて圧死する者まで出る騒ぎ。
騒ぎの鎮静化のために軍勢が出て來る始末。その軍勢を派遣したのが織田信長。更に信長は騒動の基になった者を見たいと所望。
諮らずもヴァリニャーノは信長に謁見する機會を彌助のお陰で得た。


他の野菜と鱈を被る位の水で煮る。

「墨や煤でも塗っているのではないか。洗ってみよ」
と彌助を見た信長は命じる。
いくら體を洗っても彌助の體は黒光りするばかり。
本当に肌が黑いと納得した信長はヴァリニャーノに彌助を譲って欲しいと交渉。こうして彌助は信長に仕えることに。
元々の名前はわからないが、宣教師達が呼んでいた名前が信長の耳にはヤスケと聞こえたのかもしれず、ここで彌助と名付けられた。
屈強な大男というだけではなく、十人力だったと伝えられる彌助。
信長は相撲好きだったので、御前で相撲を取る機會があったのかもしれない。
彌助は日本語が少し話せたので、信長は彌助の故郷の話を聞くのを好んだ。
小姓として仕えるようになった彌助は信長の荷物持ちや護衛が役割。


トマトジュースと黒胡椒を投入。

徳川家康の家臣、松平家忠が天正十年(1582)の甲州征伐で見た彌助の様子を記録している。
「身は墨を塗ったように黑く、身の丈六尺二分(約182センチ)」
当時の日本人の平均身長は160センチ位だったようなので、黑くて大きいということでかなり目立った。

この年の六月に起こったのが本能寺の変。
都での定宿、本能寺に居た信長を明智光秀の軍勢が囲んだ。
信長と共にいた彌助はこの時、本能寺から抜け出している。
信長の命を受けて、妙覚寺に居た信長の嫡男、信忠の元へ。
逃げるように信忠に傳えるためだったとも、信長の首を持って行ったとも言われる。


チーズ投入。

暫く信忠と共に攻め寄せた明智勢と戰っていたが、信忠が自害すると刀を渡して降伏。
彌助の処遇を家臣に尋ねられた光秀は
「黑い奴は人間ではない。動物だから南蛮寺(教会堂)へ届けてやれ」
差別的な意図があったのか、殺さない方便としてそう言ったのかはわからないが、彌助は助命されて教会へ送り届けられた。
五ヶ月後、彌助が傷の手当を受けたことを感謝する文章をルイス・フロイスが認めているのを最後に彌助の消息は消える。
織田家に仕えていた期間は一年余りということになる。


チーズが溶けてきた。

黑人侍と言われることがある彌助ですが、侍と呼べるかは微妙。
侍とは元々、さぶろう者つまり貴人の傍近くに控えて警固する者という意味があった。その意味では信長という貴人に近侍していた彌助は侍と呼べるのかもしれない。
しかし武家とか武士とは呼べない。
中世的な因習が濃い時代、つまり血統とか家柄が大きく物を言う。
それ故、有名人の子孫だとか源平藤橘の血筋だとか自称する者が多かった。
徳川家康が源氏と自称したのがいい例。
異国から来た彌助に氏素性がある筈もない。周囲はまともな武家と見ていたとは思えない。
光秀が動物と呼んだのも、そうした意識の現れ。
武士や侍というからには家柄以上に武勲も必要だが、彌助が実際に軍勢を指揮した訳ではなく、誰かを討ち取ったという記録もない。
信長にとっても、権力者が猛獣を飼うのをひけらかすに近い感覚だった?
然るべき苗字を与えずにいたのも、血統を重視する武士として扱うつもりがないことを示唆。


彌助そう鱈チーズトマト鍋

チーズが溶け込んだトマトスープがいい味。スケソウダラからでた出汁がよく利いている。
スケソウダラのタンパク質、トマトのリコピン、人参のベータカロチンや食物繊維と栄養面も無問題。
ブロッコリーはB、C、K、と各種ビタミンが豊富。

本能寺の変から二年後、九州で島津と龍造寺が戰った沖田畷の戰いで大砲を操作する黑人がいたという。それが彌助だったのではないかとも言われる。黑人というだけでは根拠が薄い。
故郷に帰ったという説も疑問。
奴隷を故郷に送り届けてやる程、当時の西洋人が寛大とは思えない。

私は妄想する。
彌助は教会から逃げて、日本の何処かに隠れて生涯を終えた。
或る黑人youtuberが興味深いことを言っていた。
「日本人程、顔や体格にヴァラエティある國民はいない」
言われてみればアラブ人っぽい顔、チリチリ頭の天然パーマ、白人のように鼻が高い人等々。
日本人が単一民族というのは嘘。
あらゆる人種や民族が列島に辿り着いて混血の末に現生日本人。
彌助ももしかしたら、日本の何処かに子孫を残したかもしれない。
信長に仕えたアフリカ人を妄想しながら、彌助そう鱈チーズトマト鍋をご馳走様でした。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集