大和芋タケル
日本史上、最初の英雄って誰だろうと考えると、スサノオノミコトだろうか。しかしスサノオは神。
人として最初の英雄はヤマトタケル。
そんなことを妄想しながら、大和芋と筍を料理した記録。
大和芋 半分
筍 小一本
味噌 大匙1
柚子胡椒 小匙1
醤油 小匙1
ヤマトタケルノミコトについては以前にも書いています。一部、内容が被っていますが、新たな考えや解釈を今回は加えています。↓
この時は主に古事記の記載からヤマトタケルについて妄想しましたが、日本書記やホツマツタエ等、他の古史古伝等では異なる話もある。そうした一般的な話とは一風変わったヤマトタケルを妄想。
そもそもヤマトタケルではなくヤマトタケではないかという説あり。
タケルというのは熊襲が用いていた称号であり、大和の皇子がそれをそのまま用いるのは違和感があるという話。一理あるかもしれませんが一応、ここではヤマトタケルとしておきます。
景行天皇の皇子として生まれたヤマトタケルの初名は小碓(オウス)
双子として生まれ、兄の名が大碓(オオウス)
兄をバラバラにして殺したことから父に恐れられ、遠ざけるために外敵退治のために西へ東へと従者も付けずに単身で戦いに送り出される。死ねと言わんばかり。
古事記が伝える経緯はやはりスサノオに似ている。
スサノオも高天原で狼藉を働いて、姉、アマテラスの怒りを買い地上へと追放。
ヤマトタケルの話はスサノオを下敷きにしているのが感じられる。というよりもヤマトタケルの前世はスサノオとも言われている。
『古事記が伝える』と書いた通り、実は日本書記では記述が異なる。
日本書記によると、西の熊襲退治を最初に命じられた大碓は怖気づいて出立しようとせず、見かねた小碓が代わりに出征。従者や兵も引き連れる。
父である景行天皇との関係も別段、悪くはない。
あくまでも天皇の代理として軍を率いる将軍という扱い。
というか、伝承によってはヤマトタケルは天皇として即位していたともある。
天皇という存在の位置づけも歴史上、変化してきた。
現代の天皇は国家統合の象徴と憲法で定義されているが、終戦までは国家元首。
近代の天皇、特に明治天皇は軍の統率者というべき父権的な印象が強い。
天皇は国家や臣民の安寧を祈る存在と言われることがよくありますが、日本という国家が成立していく過程では、自ら先頭に立って戦に赴いた天皇もいたと思われる。ヤマトタケルが即位していたとすれば、そうした軍の統率者としての天皇像。
日本書記と古事記で記述が異なるのも両書の性格の違いか。
古事記は物語性が強いのに対して、すべて漢文で書かれた日本書記は公式記録。漢字で書かれていることから外国、特に中国の王朝にも読んでもらうことを前提。
ヤマトタケルについても悲劇の皇子というよりも、大和の征服事業を率いた輝かしい将軍という位置づけ。
ヤマトタケルの外征で最初に行われたのが西、九州の熊襲討伐。
この時に女装して近づき、油断した熊襲の頭領、カワカミタケルを討ち、ヤマトタケルの名を贈られたとなっている。
しかしと考える。
ヤマトタケルの伝説は多くが東に点在。
妻の一人、オトタチバナヒメが走水で海の神の怒りを鎮めるために海に身を投げた。
山道を行くヤマトタケルが亡き妻を嘆いて、
「我が妻よ、あずまよ」と嘆いたことから、東国をあずまと呼ぶようになった。
ヤマトタケルが敵に騙されて枯野で火を周囲から付けられて、あわや焼き殺されそうにという時、叔母から渡された剣で草を薙ぎ払い、火打石で迎え火を付けたことで火が自分に向かってくることを防いだという故事から、その場所を焼津と呼ぶように。それが静岡の焼津。
それにしても、本当にこんなことで火に焼かれるとか煙に巻かれることから逃れられるものなのか?火事になる恐れがあるので実験する訳にはいかないけれど、昔から疑問。
この時、ヤマトタケルが使った剣がスサノオが八岐大蛇の尾から取り出した天叢雲剣と同じ剣であり、以後は草薙剣と呼ばれるようになった。とよく言われますが、実はそんな話は古事記や他の伝承にもない。
日本書記の外伝っぽい所に、ほんの少し触れられている程度で本当に同一の剣だったのかは不明。
妻の一人であるミヤズヒメに、その剣を預けて伊吹山の荒ぶる神を退治に出掛ける。結果的に神が放った毒気に当たってヤマトタケルは死亡。
ミヤズヒメが預かった剣を御神体として創建されたのが熱田神宮。
筍のシャキシャキ感と大和芋のシャクシャク感が見事に同居。
味噌味が強いが、柚子胡椒のピリリ感がアクセントになっている。
大和芋にはビタミンBやCが豊富に含まれる。
筍からはタンパク質や食物繊維を摂取。
ヤマトタケルが行った戦いの多くは東国。
彼方此方の地名の由来などにも関わり。
西で行われた戦いは熊襲討伐、その帰りについでのように出雲を平定。
何が言いたいかというと、ヤマトタケルの物語が作られた当時はまだ西、特に九州は大和の勢力圏ではなかったのではないか。
九州には倭国或いは大倭が健在。↓
大和が東の国々と戦い、従わせていく歴史をヤマトタケルの物語として纏めたと見るのが一般的な見方でしょう。
それを英雄譚として描いたのが古事記、記録として遺そうとしたのが日本書記ということか。ことのついでにまだ従属していなかった西も真っ先に大和に従っていますと、対外にも国内にもアピールするために熊襲征伐が加えられ、その首領から名前を贈られたという逸話が付与されたのかもしれない。
そんなことを妄想しながら、大和芋タケルをご馳走様でした。
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