不登校だった娘がロシアでバレリーナになった話 #1(不登校のきっかけ)
長女は現在22歳になります。
不登校児だった頃の話は中学1年生なので12歳、今から10年前の話になります。
そんな昔ばなし、今の時代とマッチしないんじゃないかと思う部分もあります。
10年前は、「不登校」という言葉は使われていませんでした。
「登校拒否」です(笑)
小学校時代は楽しかった
長女は振り返っていつも言います。
いまだに、小学校時代が唯一子どもでいられた楽しい時間だったと思う…と言います。
小学校ではクラスのリーダー的存在
もともと、リーダー気質のある子で、気が強く生意気なところもありますが面倒見がよく、班長とか係長とか「長」のつくものを率先してやっていました。
勉強もよくでき、いわゆる「優等生」と言われる子どもでした。
中間子ということもあり、周りの空気をよく読み、自分の立ち位置を計り、平和主義者という小学生でした。
バレエは週4日電車通学
4歳から習い始めたバレエも、高学年になると週3~4日のレッスンに通うようになりました。
自宅からは、徒歩と電車で約40分という距離に一人で通っていました。
バレエのことは私にはよくわからないのですが、身体も心もきついことがあったと思います。
小学生とはいえ、美を追求するバレリーナを目指す中で葛藤もだんだんと深刻なものに変わっていき、中学生になると環境の変化で爆発することもありました。
その話は、また詳しく書いていきます。
不登校のきっかけ
中学校は、地元の公立校に進みました。
小学校からの仲良しと同じクラスになって喜んでいましたし、通学距離も近くてストレスはさほど感じられませんでした。
公立中あるある
地域差が大きいと思いますが、長女が入学した地元の中学校は、「不良」と呼ばれる子たちに地域住民や教員がすでに手を焼いているような学校でした。
入学したてのカワイイ一年生も、2学期になる頃には悪い方に染まっていく子も出てきて、毎日のように「学年集会」「呼び出し」「授業中断」という学校生活に変わっていきました。
授業を受けられないのはおかしい
日々、どこかのクラスで問題が起き、そのたびに授業がなくなって「集会」という名のお説教タイムが始まりました。
クラスのほんの2~3人の問題行動でも、当時の担任達は結束して早いうちに問題の芽を摘もうと考えていたのだと思います。
でも、その他大勢にとっては「関係ない」話だったりします。
「集会」は放課後に開かれることも多く、部活に行けない子達の不満も相当爆発していたらしいです。
それはそうですよね…
個人的に注意、指導していけばいいことではないかな?と当時ママ友たちとも話していました。
長女の不満もものすごく、
「勉強しに行っているのに授業を受けられない」
「放課後残されるからレッスン(バレエ)に間に合わない」
と訴えていました。
ただ、当時は学校のやることに親が口出しするのはご法度、という雰囲気でしたので、この問題に親が(PTA含め)何か意見をすることはなかったと思います。
先生が嫌い
教室でも集会でも、問題行動を起こした子たちを叱るわけですから、男性の担任はドスのきいた声で怒鳴っていたようです。
その「怒鳴り声を聞きたくない」というのが、初めて学校を休んだ理由だったと思います。
当日の朝、支度をしながらしくしく泣きだす長女のことを、いまだに忘れらえません。
「どうしたの?」
私も仕事の支度中で、バタバタしながらとりあえず声をかけた程度でした。
「今日休んでいい?」
泣きながら声を絞り出す長女でした。
私は休んでもいいと言ったけど
長女が嘘をついて
「体調が悪い」といったので休むことを許可しました。
でも、それが次の日も次の日も、朝になると
「行きたくない」と始まることになりました。
「甘ったれるな、学校は行きなさい」
としまいには突き放していました。
結局、具合が悪いわけではないのでバレエは行くと言います。
でも、学校は行きたくない…という長女。
理由を聞いた時に
「先生が嫌い」
「集会や説教のために学校に行ってるわけじゃない」
「私のバレエをバカにする」
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