19才と仮定法
9月からずっと一緒だったグレタがとうとうドイツに帰ってしまうので、彼女のためにとLa vie en rose を演奏した。この曲にしたのは、以前「もし私が歌だったら、私は〜」という仮定法を学んだ時に、グレタがLa vie en rose と答えていたのを覚えていたからだ。この曲を選んだ理由をそう説明したら、グレタは「Ah〜」と口を開けて、少し恥ずかしそうに笑った。
歌い終えた後、グレタは近寄ってきて、「Megumi 」と呼びかけてハグしてくれた。ネコのようにクールで少し恥ずかしがり屋なグレタが、それまで誰かとハグしているところを見たことがなかったので少し驚いた。そのグレタがハグしに来てくれたことに、目の下のあたりがじんわりしてくるのを感じながらハグする。春にドイツに会いにいくよと約束をしてグレタの後ろ姿を見送った。
19才のグレタは高校を卒業してから、大学に入る前にこれからの選択をゆっくり考えたいと、フランスに来ていた。高校卒業後に一、二年休止期間を設けて進路について考えるというのは外国ではしばしば聞く話だ。たしか、高校生のときに知り合ったカナダ人のアリッサもそうしていた。
私が高校生だった時、進路はすなわち進学先という意味でしかなかった。私が通っていた学校は進学校と言われていたが、高校受験で公立学校に不合格だった人の滑り止めとして名が知られているような私立学校で、次(大学)こそは第一志望に行くんだという雰囲気をどこか纏っている人が多かったし、先生たちも受験に備えるという意識の強い人が多かった。そうでない先生は「受験に役に立たないことを喋っているせいで授業の進みが遅い」と生徒から文句を言われたり、先生の間でも苦言を呈されたりしていたらしかった。
私も高校受験に失敗してその学校に行くことになった一人だったが、その事はあまり引きずっていなかった。そりゃあ、不合格だった日には大泣きしたし、みじめな気分になった。不合格と書かれた紙を見て息をのみ、悪夢だと思おうとしたが、紛れもない現実で、ある浮遊感を感じていた。次いで私立高校に通うことになる費用を心配した。受かった人はこっち、落ちた人はこっちと振り分けられた時の屈辱感、トボトボと帰る道、その後中学校の先生や塾の先生に報告に行った時のことも覚えている。寒い冬の日で、暗い部屋の中で椅子に座って一対一で先生たちと話をした。
けれど、落ちたことがわかったその日か次の日に、学校に手続きをしに行くために母とドライブしているうちに、立ち直ってしまった。どういう話をしているなかで立ち直ったのかは覚えていないが、ドライブ中は竹内大輔さんのvoyagingを聞いていたことだけは確かだ。母もそのことを覚えていて、立ち直りの早さに驚いたと今でも度々言う。
そんな感じで呑気だったので、高校1年生の頃は高校受験を終えたばかりだったし、大学受験のことなんてまた先のことだと思ってのんびりしていた。それでも2年生の進級時に文理選択をしなければならず、当時は堅実な仕事に就こうと管理栄養士を目指していたから、理系に進むことにした。文系科目の方が好きだったし、自分に向いているとは思っていたが、一年生当時に担当していた教師のおかげで生物と数学は楽しく学べていたし、担任の「理系から文転するのはできるけれど、文系から理転するのは難しいから、迷っているなら理系にしておいた方が良い」というのを聞いて、「ダメだったらその時変えればいいや」くらいの軽い気持ちで理系に進んだ。
2年生になって、生物の先生は変わり、元々苦手だった数学や化学の内容は難しくなった。はじめのうちはそれでもなんとかやっていたが、夏休み明けに、学校に行きたくなくなって4日ほどサボった。というのも、私の通っていた高校には夏休み明けと確か冬休み明けに、実力テストというのものがあったからだ。試験範囲はそれまでの全部で、その結果は全員ではないが得点順に廊下に名前が張り出される。プライドの高い私は、自分の名前が成績上位者の欄にないことが許せなかった。1年生の時はその欄に名前があったのに、2年生になって没落したと思われることを非常に恐れたのだった。恥を晒すくらいなら最初から競争に参加しない方がマシだと思った。今から思えば自意識過剰ではあるが、当時は本当にストレスで、現実逃避なのか勉強も一切せず、服のデザイン画ばかり描いていた。
母はその時のこともよく覚えていて、私は忘れていたが、学校への休みの連絡は母に頼んだらしい。仮病を言い訳にしたのだったが、担任の先生はたぶん、全部お見通しだった。それでも休み明けに会ったとき、先生はからかいもせず、しつこく尋ねるようなこともせず、過度な心配も示さず、「大丈夫か?まぁ、そういうこともあるよな」とひとこと言って、頷いただけだった。今でもその時の先生の表情が目に浮かぶ。私にはそれがとてもありがたかった。
それから文転することを考え始め、いつだったかは正確には覚えていないが、わりとすぐに文転することに決めた。先生はその時も「そうするかなとは思ってたよ」とすんなり文転することを承諾してくれた。
理系の勉強に仮に高校卒業までは耐えられたとしても、大学やその先で詰まるのが目に見えていた。私が数学の公式を必死に覚えている側で、ある男子生徒2人が、テストの時に公式を忘れたから自分で作って解いた、と話しているのを聞いて、ほんとに向いてる人はそういうことができるのかぁ、とすっかり感服して、私はさっぱり諦めてしまった。
そこからは180度方向転換して、自分の感覚に素直に従うことにした。とはいえ、管理栄養士になるという考えをすっかり捨てた私には、将来何になりたいというものは明確になかった。
私の考えられる「将来」や「進路」の範囲は、せいぜい大学の学部選択までだったが、私は文学部以外は興味がなかった。文系のなかでも法学部、政治・経済学部などがあるが、当時は今ほど社会問題に関心が強いわけでもなく、他はろくに検討もしなかった。
文学部に行きたかったのはまったく趣味的な理由だった。本は好きで以前からよく読んでいたし、高校一年のときの国語の先生のおかげで作品を読み込む面白さに触れることができ、大学で学んで自分1人でも作品をより深く味わえるようになりたいと思ったのだった。その先生は「受験に役に立たないことを喋っていて、そのせいで授業の進みが遅い」と言われていた先生のうちの一人だったが、私にとっては受験どころか、その後、現在に至るまで大きな影響を与えてくれた。先生の「僕は小説の読み方を教えているんです。」という言葉に感動してページの隅にメモした教科書と、授業のプリントやノートは今も捨てられずに部屋の棚にしまってある。
幸い大学受験では第一志望に合格し、感覚に素直に行動した方が良いという成功体験を得た。そのせいで、あるいは、そのおかげで、今に至るまで将来のことを深く考えずに、感覚に従うという生き方が続いている。いまや私は25才だというのに、19才のグレタ以上に宙ぶらりんのままだ。
ところで金曜の夜、2024年現在の記憶を保持したまま、5年前に戻るという夢を見た。2019年は、コロナ前だ。5年後から来た私は当然、コロナウイルスと世の中の混乱のことを知っていて、それもふまえてこれからどうしようかと選択を悩んでいた。何を悩んでいたかは細かく覚えていないが、コロナ禍にどう備えるかということよりも、2024年現在の自分を否定して別の生き方を模索するのか、肯定して同じ道を辿るのかを決め損ねていた。悩んでいるうちに5年後の私が持っていた未来の記憶は、夢のようにあやふやになって、消えてしまった、というところで目が覚めた。
「もし私が〇〇だったら、私は〜」という仮定法は、語学学習において必修ではあるが、実際には、そういうことを考えてもしょうがない。
それでも、もし5年前に戻れたらどうするか?、5年後のことを考えて行動するとしたらどうか、とその夢に突きつけられたようだった。
今の生き方を全面的に肯定できるほど自信を持っているわけではない。もしかしたら、これから後悔することになるかもしれない。だがその「もしかしたら〜かもしれない」という仮定こそ、きっと意味がない。
クロアゲハチョウのような誇らしい羽根はなくとも、今のところ後悔は思いつかない。エディットピアフのように有名にならなくても、グレタが笑ってくれたから、それで十分だ。グレタが『La vie en rose』なら、私は『Non, je ne regrette rien』。大々的に誇ることはなくても、後悔のない人生、そんな人生がいい。