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サン・ミシェル教会のクリスマス会
12月の第一日曜日にサン・ミシェル教会のクリスマス会に参加した。金曜日の帰り道になんとなく立ち寄ったら、偶然クリスマス会のお知らせの紙を見つけたのだった。その紙には「クリスマスにむけてともに準備しましょう」とあり、フランス人たちがどのようにクリスマスを祝うのか興味があったし、特に他に予定もなかったから行ってみることにした。いや、それもそうなのだが、正直に言うと「温かいワインvin chaude」「食事の提供repas offert 」「ホットココアchocolat chaud」とあり、食いしん坊な私はそれに釣られたのだった。
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サン・ミシェル教会は私が今までに訪れたボルドーの教会のなかで、最も好きな教会だ。大きく立派な教会だが、どこか奥ゆかしさを感じる。それはサン・ミシェル教会の前に再建中の塔があって、それに隠れるようにして建っているせいだろう。それに対して、同じようにすぐ近くに鐘塔のあるサント・アンドレ教会は、塔と教会がどちらも競い合っているようで私は少し落ち着かなさを覚える。
規模としてはサン・ミシェル教会もサント・アンドレ教会に引けを取らないのだが、サント・アンドレ教会はカテドラルであるのに対し、サン・ミシェル教会はカテドラルではなく、バシリク教会である。カテドラル・バシリク・(ただの)教会。この区別は難しくて、フランス人、それもカトリック教徒でも違いを正確に理解しているわけではないらしい。学校の先生であるサラはサン・ミシェル教会を「カテドラル」と呼んでいた。カテドラルはサント・アンドレ教会だけらしいよと伝えると、「いつも何が違うのか忘れちゃうのよね」と言っていた。
イザベルにサン・ミシェル教会にカテドラルではないわよ、と教えてもらったのだが、バシリクとどう違うのかは彼女もジャックも知らず、大きな辞書で調べないとわからなかった。
https://christianpure.com/ja/learn/cathedral-basilica-church-differences/
日曜日の朝。11時15分というきっかりというには中途半端な時間からミサが始まるのに合わせて家を出る。ジャックに過食症を疑われ、少しザワついている気分が神事によって鎮められることを期待しつつサン・ミシェル教会へ歩いて向かう。その途中にはキャプサン市場というボルドーで最も大きいマルシェがあり、そこで翌日以降に食べるためのパンを買った。当初、菓子パンは買うつもりはなかったのだが、美味しそうだし、キャプサン市場で買い物することも多くはないのだから食欲に従うことにした。たとえ食べ過ぎだろうと構うものか、という反抗心もあった。
サン・ミシェル教会前の広場では古本や古着、骨董品の蚤の市が開かれていた。だが、天気は悪く、寒くて、マルシェを楽しむ気分にはなれなかった。ウールのセットアップにはところどころに雨の雫がついており、どの古本のページとも知れないが紙が風に飛ばされてしまっている。あまり見ている時間もなかったので、寒くて腕を組んだまま、足を早めて教会の門へと急ぐと、そんな天候にも関わらず、白いマントを羽織った女の子が3人、ミサのプログラムの紙を手にして来場者を迎えてくれていた。そのうちの一人から一枚受け取る。手渡してくれた子はもちろん、3人それぞれと目を合わせて「Merci」と言って中に入った。
ミサには、それまでに二度パオラに連れられて参加したことはあったが、自発的に来たのはこれが初めてのことだった。パオラもいないし、私はカトリック教徒ではないから、あまり目立つ席に座るのも気が引けて、真ん中の端っこに位置取った。座るときに3列後ろの席に座っていた黒人の男性と目が合い、教会なのであまり大きな声は出せないから小声で「Bonjour」と言うと、彼も「Bonjour 」と返してくれたのが口の動きでわかった。
挨拶をすることによって、異教徒(無神論者)でもミサに参加してもいいと、その教会という環境に、ミサに参加する一員として受け入れられた気がした。日本人だからといって仏教徒とは限らないし、反対にフランス人だからといってカトリック教徒とは限らない。側から見たら私がカトリック教徒か否かはわからないのだから、そんなに意識しなくてもいいのだろうが、やはり言葉を交わすことによってどこか安心するところがある。
ミサは見よう見まねで立って歌ったり座って話を聞いたりしているうちに1時間ほどで終わった。今回は初めて神父さんが配る丸い白いお菓子をもらってみた。うまくカトリック教徒に擬態するつもりが、もらったその場ですぐ食べると言うのを知らず、「ここで食べるんだよ」と教えてもらって少し慌ててしまった。口に含むと、神様の魂だという薄くて丸く無味なそれは舌の上でじんわりと溶けていった。
ミサの後は教会のステンドグラスを改めて見てまわる。
青、赤、緑、黄色。古そうな教会のわりに、斬新な色づかいとデフォルメされた人物の表現が素敵だなと思っていたが、解説文を読むとそれらは1960年代と比較的最近の作品であるとわかった。
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教会内を見てまわっている途中に、地下へと続く階段があり、ちらほらと降っていく人たちがいたのでついて行ってみると、たくさんの人が紙コップを片手に集まっていた。Vin chaud、温かいワインの甘い香りがする。アルコール類はあまり飲まないようにしているからvin chaudも飲むつもりはなかったのだが、法服を脱いだ神父さんに挨拶すると、「いらっしゃい、さあさあ入って」とvin chaudを給仕してくれている男性の前に連れて行かれたので、せっかくだから一杯いただくことにした。
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はいどうぞ、と手渡されたワインは熱くもぬるくもなく、ちょうどいい温かさだ。甘くて飲みやすい。紙コップで手を温めながらウロウロしていると、ある女性に声をかけられる。「Bonjour! 私はフルランス、あなたは?…Megumiね。こっちよ、ついてきて!」と奥の方に案内されると、そこには既にたくさんの人、(50人はいたと思う)が座って昼食を待っていた。「ここでもいい?」と案内してもらった席に着いて、フルランスさんや隣り合った人たちと改めて挨拶を交わし、簡単に自己紹介する。あれよあれよという間に初対面の人たちと食卓を囲んで話をしている。地下室を見つけてからこうして席に着くまで誘導されるがままになっているということに、先生がすべて引率してくれていた幼稚園生の頃を思い出した。長い机の両側に席を詰めて座っている光景は、幼稚園でお昼ご飯を食べていたときのそれと重なる。
まもなく食事がふるまわれる。
お米、豚肉一切れ、トマトソース、唐辛子(ホースラディッシュのようなもの)。続いてパンと一切れのカマンベールチーズ、ガトーショコラにブドウとみかん。それにワインとコーヒーも。唐辛子が配られたときに、フルランスさんは彼女の母親がわさびを辛いものと知らずスプーンいっぱいに食べてしまったと話してくれた。
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どこから来たのか、どこで何をしているのか、なぜボルドーに来たのか、どのようにしてこのクリスマス会にたどり着いたのかなど一通り聞かれるままに答えた後は、別の教会で行われるクリスマスの行事の話やフルランスさんのお子さんの話、パリの話をした。やはりすべては理解できなかったが、そこにいた人たちは一度は皆パリに長期滞在をしたことがあり、何区にいたとか、パリは好きかとかそんな話をしていた。
ご飯の後は「partager」の時間。「partager」とは共有すると言う意味だが、ここではそれぞれの意見を「partager」する。それぞれのテーブルに質問が書かれた紙が配られて、それに対する考えを話し合うのだ。
私たちの紙に書かれていたのは「あなたにとって、『神の光』だと感じる今年の出来事はなんでしたか」というものだった。神の光。恩恵、救い、希望などということだろう。アデルさんというアフリカ系の女性が「私たちみんなが神の光なの」と真剣に一人ひとりと目を合わせながらゆっくりと語っていたのが印象的だった。そこには、クリスチャンどころか信仰自体はっきりとしたものがない私も、思わず頷かないではいられないような本気さがあった。おそらく、彼女には神の存在やその「光」を本当に感じていることがあるのだろう。彼女が話すのを聞いていて、「信じる者は救われる」というのは排他的な意味ではなくて、彼女のように信じる人は自らの想像力によって神を創造し、それによって救われることがあるということなのではないかと思った。
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