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与謝野晶子訳『源氏物語』 一 桐壺
なんとなく待ち時間が出来て、安売り電子書籍を漁っていたら出てきたわけで。『源氏物語』が。
谷崎潤一郎訳と与謝野晶子訳があったわけなんだけど、谷崎潤一郎訳はなんとなくねちっこそうで(個人的感想です)、与謝野晶子訳にしてみた。母がかつて「途中で面倒臭くなった」とか言ってたっけ。そういうような経緯で読みはじめたんだけども、なんだかそれなりに面白くて、スキマ時間で読んだりしている。だがしかし、与謝野晶子訳は既に青空文庫にもなっているわけで、買うまでもなかったかもしれない。
『源氏物語』は全く読んだことがなくて、「光源氏」という名前しか知らないという程度である。価値や質なんてものはわからないから、単にお話として面白いかどうかというだけでしかない。
古い書物を読むときは、当時の歴史的背景だとか、当時の地理だとか、当時の風習だとかがとても気になる。最近ではネットでいろいろ調べられるのでとてもありがたい。前に、明治時代の古地図を眺めながら小説を読んだこともある。あるいは、デンマークの翻訳小説を読むときにマップでデンマークの地図を見ながら読んだり、ロシアの地図やストリートビューを見ながら『罪と罰』を読んだり。ロシアのストリートビューを見ているととても明るく綺麗な街だったりするので、ラスコーリニコフの性格となんとなく相容れず不思議な気がしたものだ。
『源氏物語』もそういう風な読み方も面白かろうとも思うが、さすがに千年前ともなるとなかなか検索も思うに進まない。
一 桐壺
第一章は『桐壺』である。
『桐壺』とは光源氏の母にあたる。帝の寵愛を受け、他の女御からの嫉妬に苛まれて若くして亡くなる。桐壺を亡くして嘆きくれる帝をみかねて、桐壺に似ていると言われる藤壺が中宮に入る。また、母桐壺に続き祖母も亡くした光源氏も宮中に入る。光源氏は藤壺を恋慕うようになる。
後宮の位
「更衣」というのは、後宮の女性達の位を表すようなもので、大雑把に、皇后→女御→更衣というような順になるようである。すなわち、更衣とは後宮の中にあっては比較的身分が低い。『源氏物語』において帝とは、小説冒頭に『どの天皇様の御代であったか』とあって、誰のことを指すのかはよくわからない。小説の後の方には『桐壺帝』などという表現もみられるが、どちらにしても架空の帝かもしれない。
ちなみに、「御息所(みやすどころ)」とは、「皇子女の生母になった更衣はこう呼ばれる」のだそうだ。「中宮」は、皇后の住まいを「中宮」と呼ぶところから転じた皇后の別称である。
後宮の位についてはこちらを参考にした。
内裏
もう一つ。『桐壺』とはなんぞやということであるが、これは女性が住まわった館の名称のようである。『桐壺の更衣』というと、『桐壺という館に済んでいる更衣という位の女性』ということになる。『桐壺』はどこにあったのだろう。
住んでいる御殿は御所の中の東北の隅のような桐壺であった
東北の隅?
次の記事に内裏の図が紹介されていた。
淑景舎(しげいしゃ)というのが、館の本当の名称であるらしい。本当に東北の隅っこにあって、それは帝の住まいとは対角線にあり、帝が桐壺に行くには他の女御達の廊下を通ることになる。頻繁に素通りされれば、嫉妬も募ろうというものだ。
召されることがあまり続くころは、打ち橋とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪い仕掛けがされて、送り迎えをする女房たちの着物の裾が一度でいたんでしまうようなことがあったりする。
『意地の悪い仕掛け』をしたのは、他の女御や更衣達である。着物の裾がいたむとは、いったいどんな仕掛けをしたんだか。そんなこんなが続くと帝はいよいよ、後涼殿の更衣を追い出し桐壺を後涼殿に移してしまう。後涼殿は、帝の住まいである清涼殿のお隣である。帝は桐壺をすぐそばに置いたわけだ。後涼殿を追い出された更衣の恨みはさらに増す。
袴着の式
第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着の式が行なわれた。
「第二の皇子」とは「光源氏」のことである。
別の女御である弘徽殿が既に皇子を授かっていたことから、光源氏は第二の皇子となる。
「袴着の式」とは何だろう。
三歳だから七五三?
着袴の儀。「ちゃっこのぎ」と読むらしい。
平安時代から皇室に伝わる儀式。子(新宮)が数え年で5歳になると行われるもので、天皇から贈られた袴(はかま)を初めて着ける。
ん?
五歳?
「袴着」と「着袴」は違うのかしらん。
難しい。
調べてもよくはわからなかった。
元服
いよいよ十二の歳に元服をおさせになることになった。
十二歳!
早いな。
上で二つに分けて耳の所で輪にした童形の礼髪を結った源氏の顔つき、少年の美、これを永久に保存しておくことが不可能なのであろうかと惜しまれた。
『上で二つに分けて耳の所で輪にした童形の礼髪』って、どんなんだろう。
耳の所で輪にしたのは、角髪(みずら)というのだそうだ。歴史は古く古墳時代からあるらしい。埴輪にも角髪がよく見られる。飛鳥時代や奈良時代にのイメージが強いが平安時代でも幼少期には角髪を装っていたようだ。「元服」というとなんとなく江戸時代の印象が強い。時代劇のせいかもしれないが。十六歳頃に前髪を落とし月代を作るというのが江戸時代の元服だったか。「元服」の歴史も古く奈良時代からある。平安時代にはまだ月代はなかった。長く伸ばして角髪を編んでいた髪を落とし、もとどりを結って冠をつけるというのが、平安時代の元服となる。
こちらのブログも興味深い。
風俗博物館で紹介された平安時代の元服の様子が写真掲載されている。元服する十二歳の少年がとても可愛らしい。
京都に風俗博物館なるものがあったのか。
知らなんだ。
行って、見てみたい。
さて。
源氏物語は五十六帖もあるわけで。
このペースで読んでいたら、一年以上かかりそうだ。
はてさて、どうなることやら。
続きはこちら。