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漱石の『文学論』が面白いんじゃね?(2)

前回、漱石の『文学論』について触れたのだか、文庫本にある亀井俊介氏の解説に対する言及だけに終始してしまった。今度こそは「ジェイン・エア」について触れてみる。

もう迷わない。
もう道草しない。
ジェイン・エアに一直線に行く。
(大袈裟な・・・)

おっと、その前に。

ジェイン・エアをどうのこうの語るにあたって、やはりジェイン・エアがどういう小説なのか、たとえ一部であっても触れざるを得ない。それは漱石もやっているわけで、引用して文学論を語る以上避けられないことである。このため、一部にネタバレが含まれることを予めお断りしておく。


はっきり言って、バーサが邪魔

ジェイン・エアがどういう小説なのか、漱石に紹介してもらおう。これが、実に秀逸なんである。

以下、漱石からの引用文における太字は、私が施したものである。

Rochester と Jane との相愛の様は実に浪漫派一流の恋愛にして普通の圏外に逸出する事遠しと雖ども(いえども)この点に関しては吾人の同情もまた一歩を進むるほどに興味あるを覚ゆべし。かくして吾人の同情は彼らの愛と共に増加し来りて、吾人の神経その極度に緊張せられたる時漸くにして、彼らの結婚の準備は成る。

夏目漱石『文学論』

普通の圏外に逸出する事遠しと雖ども』とは、またなんともすごい表現である。
普通の圏外に逸出する』とは、普通の状態を逸した恋愛ということであり、加えて『逸出する事遠し』とはさらに遠くまで状態を逸したということになる(多分)。ものすごい恋愛だ。

「吾人」はほぼ「読者」と思っていい。読者は Rochester と Jane の恋愛にどんどん感情移入してゆき、そしてその感情は『彼らの愛と共に増加』するんである。『彼らの愛と共に増加』するとは、誠に上手い表現である。漱石も『増加』したんであろうか。同じでないにしても似た感情であるとすれば、なんだか楽しいことだ。

続けてみる。

然るにいよいよ結婚の間際に至りて図らずも Rochester はこの愛人を迎ふるの資格なきものとなり了る。彼は既婚の人なり。その妻は狂人なれども、歴然として生存す。その妻の生存する以上は重婚の罪を犯すことなくして思ふ人を娶るの権利なし。

夏目漱石『文学論』

なんと!
あろうことか、 Rochester には妻があったんである!
これだけ、Rochester と Jane の恋愛を見守ってきたのに、結婚できないですって!?

妻と別れて Jane と結婚すりゃあいいだろうなどと思うのは現代人だからであって、当時、離婚は容易ではなく、まして配偶者が精神に異常を来していると離婚は許されなかったらしい。

ちなみに、この Rochester の妻がバーサであって、彼女は狂人である。狂人とは、時には叫び、時には噛みつき、時にはつかみかかってくるという状況である。この小説ではほとんど人でなきが如く描かれる。

狂人かどうかはともかく、離婚できないとなるとRochester と Jane は結婚でけへんやん。
と、こうなる。

そのことを漱石はこんな風に言うのだ。

ここまで進行したる情事の、斯ほどの障害のため成立し難きは残念なり、気の毒なりとは一般読者の脳裏に起る自然の情なるべし。

夏目漱石『文学論』

そうなのよ。愛し合っているのに一緒になれないなんて、なんだか歯がゆくって、もどかしくって。

自然の情なればさほど不道徳のものと斥くる(しりぞくる)にあらず、されどもその情緒の裏面には既に公平を失したる不道徳の蟠る(わだかまる)ものあり

夏目漱石『文学論』

残念だったり、気の毒に思ったりすることは自然の感情であって、それを不道徳のものとしてしりぞけることはない。そこまではいい。

されどもその情緒の裏面には既に公平を失したる不道徳の蟠るものあり

その感情の裏に公平を失するような不道徳があるですって?
感情の裏って、それって、いったい・・・なに?

この場合における吾人は殆んど馬車馬の如し。先妻は死ぬも可なり、社会は乱るるも可なり、ただ両人の恋だに成就せばと思ひ煩ふべし。

夏目漱石『文学論』

ば、馬車馬って・・・。
先妻は死ぬも可?
社会は乱るるも可?
先妻が死のうが、社会的道徳が乱れようが、とにかく Rochester と Jane の恋が成就すればええやないかと、そう考えてしまふ。
そういうことらしい。
確かに馬車馬だ。

漱石の筆はまだまだ止まらない。

かく思ひ煩ふ折この結婚は遂に行き悩みの末、哀れにも本人らは訣別の止むなきに至る。読んでここに至つて吾人の同情は不道徳の方面に向かつて更に一歩を進む。思へらくこの狂女を殺して相思の情を遂げしめんと。

夏目漱石『文学論』

どへー!
バーサを殺せとな!

いや、これはいいすぎか。

結局のところ、Rochester と Jane は訣別するに至る。何もかも、バーサのせいだ。そう考えると読者の不道徳感は更に1本進む。バーサを殺せばええやん、と。

小説を読んでいるとついそんな考えも浮かんでしまうと、こういうことであるらしい。


でもね、それって不道徳でしょ?

だが漱石は最後にこう付け加える。

最後にこの狂女が家に火を放つて自ら焼死するの一段に至つて手を拍つて喜ぶものは単に Jane のみならざるべし。これを不道徳情緒の頂点なりとす。

夏目漱石『文学論』

物語の最後の方で、バーサは亡くなる。
そこで、皆(Jane も読者も)は手をたたいて喜ぶわけだ。

ジェイン、喜んでたっけ?
喜んでいたように見えないでもないかもしれない。

人が一人死んで成就する恋

なんとなくね、読んでいても、その、後ろめたさというか、負い目というか、やましさというか、そんな感情がないではなかったような、あったようななかったような、そんな気はする。漱石はそれを浮き彫りにしたわけで。そしてそれを『不道徳情緒の頂点』と言い切るのだ。

この小説でのバーサに関連する記載については、アジア人に対する偏見だ。そう聞いたことがある。こちらの『サルガッソーの広い海』という小説はバーサから見た物語であるとも聞いた。ジェイン・エアが大好きな私にとってはなかなか踏み出せずにいる。

著者の匙加減一つで、登場人物は善になり悪になる。漱石はそういう。小説を読んでいると、時に不道徳な感情もわきおこり、またそれを不道徳にさえ感じないことさえある。不道徳の要素が少なければ良し、多ければ悪しとして斥けるのであって、程度の差でしかない。

漱石はジェイン・エアを読みながら、バーサが亡くなるに及んで思うところがあったのだろうか。私など、あっさりとスルーしてしまったのだけど。


ね、面白いでしょう?

ここで書いたのは『文学論』の極々一部である。
他にも拾い読みすると、本当に面白い。いろいろな文学作品を取り上げ例えて言及しているので、その作品はそういった見方もあったかとか、それ面白そうやんとか、そんなことも思ったりする。

そもそも、漱石の表現が実に率直なんである。先に挙げた『この狂女を殺して相思の情を遂げしめん』もそうであるが、例えば人の感覚について文学を考察してみた場合に、例えば味覚などではこんな風に言及する。

食気(くいけ)の如き下等感覚が所謂高尚なる文学に混入し得ざるべしとの想像は左の例にて打破せらるべし。

夏目漱石『文学論』

食気(くいけ)って下等感覚だったのか(笑)。

左の例』がどんなものなのか、気になる方は是非『文学論』をお読みください。そんなこんなのウィットにあふれた表現が、常に読者を楽しませてくれる。それが漱石の『文学論』なのである。



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