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映画考察「ヒトラーのための虐殺会議」

観たい映画を探す時、私は「Filmarks(フィルマークス)」というアプリを使用する。そのレビューを見て気になっていた「ヒトラーのための虐殺会議」。土日を利用してアマプラで視聴した。以下、ネタバレあり。といっても、ホロコーストについては知っている方がほとんどだろう。

あらすじ

 オフィシャルサイトによると、以下の通り。
舞台は1942年1月20日。ドイツ、ベルリンの大邸宅にてナチス親衛隊と各事務次官が、国家保安部長官のラインハルト・ハイドリヒに招かれ、高官15名と秘書1名の会議が始まった。議題はユダヤ人問題の最終的解決について。最終解決とは、1,100万人ものユダヤ人を虐殺すること。

実際の議事録をもとに映画を作成したとある。90分の会議だったらしいが、この会議の中心人物はハイドリヒ。この人物、国家元帥のゲーリングからユダヤ人問題の最終的解決の委任を受けている。まさにホロコーストの最高司令官。

会議の上で能力を発揮する人物

この映画をどう観るかは、人それぞれだと思う。私はまず、「会議」を構成する人物が印象に残った。組織が進むべき方針を決めるのであれば少人数で開催してブレストとかするだろうが、この映画の会議はそうではない。チーム・ハイドリヒ(親衛隊)が、自分たちが描いた青写真通りに進めるための合意形成を図る場である。つまり、会議出席者の各事務次官たちに「最終的解決」を実行する了承を得ること、そのための省庁間の擦り合わせが目的だ。

劇中では、ハイドリヒは冷静かつ会議をまとめる威厳と包容力を併せ持った人物のように描かれている。が、実際はどうだったろうか。このハイドリヒの向かって右に座るのが、親衛隊中将のオットー・ホーフマン。ハイドリヒの補佐役として、絶妙なバランス感覚で反論をいなす。そして、冷徹な親衛隊少佐のアイヒマン。彼も目立つのだが、冷徹かつ非常に有能な実務屋という印象。
実際、このような役回りの人材がいれば会議もまとまる。内容は全く違うが、地域づくりの会議で協議がまとまるか否かは、中心者もさることながらオットー的立ち位置の人(中心者の補佐。全て中心者の考えに添う)とアイヒマン的立ち位置の人(実務に長けている人)がいるかどうかだと思う。

会議の内容

さて、この映画の会議では、本当に恐ろしいことがさも当然のように話される。まず、ユダヤ人を虐殺すること自体に異を唱える人はいない。会議構成メンバーの興味は、この「煩わしい」問題をどう解決するのかということ。各事務次官は各々の立場からの実務上の不安を述べていく。まず、ユダヤ人がおよそ何名いるのか、蜂起させないように処置するにはどうするか、コストがかからないようにするにはどうすべきか、ドイツ人との混血の場合はどうするかなどなど。戦時中で弾薬も無駄にできないから、確実に1射で仕留めること、それでも1,100万発は必要であることなど。

決まった方針である「最終的解決」自体に異を唱える会議ではないのだ。方針は、トップであるヒトラーが決めている。この会議でどう反論しても覆らない。会議参加者は全員それをわかっている。一人一人の真意はわからない。
唯一、首相官房局長のクリツィンガーという人が、「倫理的にどうか」と発言。私は、「おっ!反論する人もいる!」と驚いたが、この人が言いたかったのは、「残酷な殺し方をすると、その影響を受けるドイツ人が心配だ」というもの。クリツィンガーさん、ほどほどに粘るが、アイヒマンがアウシュビッツでガスで殺戮する案を披露すると、「それならよい」と引き下がる。ガスを送る人、遺体を片付ける人といったように分業できるからドイツ人への影響が少ないという理由で。
結局、ガスという方法が最も良いという結論に至る。電車でアウシュビッツ→到着と同時に消毒と称してガス室へ→死体を焼却 この流れが最も効率がよいとのことで関係各位が納得。
この結論に至る過程は、ぜひ映画で見ていただきたい。

組織の恐ろしさ

私は、管理職会議が好きではなかった。「方針はすでに決まっています。あなた方はそれを実行してくださいね」という会議に放り込まれることが気に入らない。どのような会社組織でも中間管理職が集められての会議はよくある。その場ではすでに決定している方針に異を唱えることは許されないし、無駄だ。私は、前職の法人や所属している他の組織の会議において、方針自体が気に入らない場合にはバシッと反対意見を言っていた。無駄だとわかっているが。結果、「うるさいやつ」と思われるだけで、全く私の利益にならない。映画のように戦時下ドイツのこのような会議だと、反論が死を意味すると思う。

自分が合意してもいないことを、『決まったことだから』と、実務部分だけを押し付けられる。絶対に不可能としか思えない目標や無駄な取り組みもあるのに。
それでも組織にいる以上、仕方ない。
この映画を観て、ただ残酷な会議参加者の発言に驚くだろうが、この立ち位置の会議だと、現代人の私たちが参加してもきっと同じようになる。せいぜい方法論に反対するか、実行時期を遅らせる意見を述べるのが限界ではないか。
このような会議が開催される時点ではどのように反論しても遅い。反人権思想が社会に放たれた直後か、または組織の意思決定会議にしか方針を覆すチャンスはない。

組織は、一度目標が決められたら恐ろしいほどの遂行力を発揮する。その目標がどういったものであれ。それをありありと描いた作品でもあるこの映画。組織の持つ力の強さが悪ではない。現在のAppleやMicrosoftなどの有名企業であれ、一人の天才だけでは世界を席巻するモノ、システムはできなかったはずだから。

私自身は、現在は小規模事務所で比較的自由に活動できているが組織にいることで生じる悩みは尽きない。ただ、1人で事業を行うことは本当にベストな選択か。小さいながらも組織を構成していることの強みを再考することにもなった。


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