学びのすべてはつながってゆく
最近、私はいろんな事柄がねっこでつながっていると気づくことに喜びを感じている。
それが一見関連なさそうなものであればあるほど、気づいたときの興奮は大きく、そして誰かにねえねえ知ってた?気づいてた?と話したくなる度も高い。
でも、毎日会話の9割が3歳児相手なので、残念ながら披露する場がない。ってわけで、ここらで最近の気づきをまとめてみようと思う。
noteや読書によってひろがったりつながったりした私の発見が、また誰かにとっての気づきになればとっても嬉しい。
私は心理学・哲学・社会学あたりを大学であさーく撫でた。
その後社会の歯車に組み込まれること10年、ちらと思い出して触れることはあっても、しっかり調べたり学んだりする機会はなく。私の脳の片隅にすっかり追いやられていたが、この度引っ張り出してくることになった。
心理学や哲学については、学生の頃実感を伴っての理解が出来なかった部分が乗り越えられるようになり、圧倒的にいま勉強したほうが楽しいし学びになっていると思う。
大学生の私が哲学に興味を持ったのは、「哲学を学ぶ私」への自己陶酔。
あと「哲学を学ぶ大学生」がかっこよくて、その輪に混ざりたかったから。
でもあのときの自己陶酔のおかげで、哲学用語やらギリシャ語ラテン語の意味わからん語感にアレルギーを起こさずに本が読める。過去のファッション哲学部生だった私、グッジョブ。
はじまりは自己陶酔でも、いまこうしてある程度心理学や哲学の知識をベースに持ったうえで森羅万象に触れていると、思わぬつながりを感じることがある。
心理学でいう集合的無意識から、文化人類学、人間のホルモン、宗教、芸術、スピリチュアル、行動経済学、マーケティング…とつながってゆく。
自己分析に使うような性格分類からはじまり、脳科学、発達心理学、精神医学、栄養学、生物学…とつながってゆく。
目に見えない同じことがらを、異なるジャンルで異なる言葉、異なる視点で説明していることに気づく。
自分で気づくこともあれば、noteの交流を通して教えてもらうこともある。
こんなに面白いことはない!
ねっこはつながっているのだ。
きっと、数学の難解な公式と、私たちに組み込まれた遺伝子と、移ろいやすい乙女の感情と息子の癇癪だって、ねっこは繋がっているのだ。いまのわたしにはそのつながりはまだ見えない。
見えないものを見ようとして望遠鏡を覗き込んだ先人たちは、それぞれの暗闇を照らすような微かな光を探し出しては、自分の表現方法で人に伝えようとしている。藤君みたいに。
それを道しるべにして、見えないものの世界を探検するのが、現代に生きる私たちの特権なのだと思う。
本当は全部手探りで行かないといけない暗闇に、ロープが張ってあったり、街灯があったり、「この先落とし穴」みたいな看板があったり、音声案内があったり、この部分の暗闇はなんルクスぐらい明るくなっていてその理由は…みたいな文献が落ちてたりする。
手探りで行ってもいいけど、ロープに気づいたらロープを使いたい。
ほかの道しるべに気づいたら、より心強い。
学問とはそういうことだと思う。
ひとりで学ぶのもいいけど、やっぱり交流する場があると圧倒的に気づきが加速する。
noteの街には、さまざまな人生経歴をもった人たちがいるので、新たなジャンルの学びへの最初の一歩に適任だ。
そこらじゅうにまだ見ぬ発見、忘れていたもの、新たな価値観が転がっている。なんと拾う気があれば拾い放題。そして自分もタネでも苗でも実でもまき放題。とっても楽しい!
そうして、なんでも、少しでも「知る」ことができたら、知ったことに対して優しくなれる。
世界にはまだまだ知らないことがあると知ることで、もっと知りたくなる。人生が楽しくなる。
私はこんなに無知でちっぽけだと、絶望することもあるけれど、わからないことがなくなることは絶対にないから、逆にいえばいつまでも新たな発見や学びがあることが保証されている。
生きててよかったなと思う。
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか。
私にとってnoteは、探求への道しるべを一緒に探して、そして新たな道しるべをつくるばしょ。