9月の短歌
さて、今日は月に一度の短歌の会だった。(2023.9.8)
読書会の2日後の短歌の会。
市立図書館の図書カードを発見したから、何か本を借りたい。
今日は余裕を持って到着。受付で図書カード更新のための書類をいただき、教室に滑り込む。
机の上にはかぼすのプレゼント。徳島が故郷の友人からのものであった。
例の遅刻の彼女は、今日も懲りずに、遅刻であった。
猛禽?飼っているのか?と思ったのだが、もしかしたら偶然通りかかったところにいた猛禽なのかもしれない。とんびか?この猛暑のせいか、息絶え絶えの猛禽に、一生懸命、水を与える作者の姿が見えるようだ。
猛禽の命の生々しさと生きてと水を与える臨場感がいいと感じた。
「息継ぎも荒く横たわる猛禽に」という上の句をえりりん先生がちょっと変えた。説明くささが消えて、ドラマチックになったなと思う。
みなにすだちをプレゼントした詠み人がわかる歌である。秋刀魚は庶民の魚であったのに、昨今、取れな過ぎて、手が届かなくなっている。
元の歌は「ふるさとのすだちが届き母に供え秋刀魚を買いに日傘さし行く」であったが、えりりん先生が、かぼすと秋刀魚に焦点をあてましょうと言う。作者的には母に供えというところがポイントでもあるのだと思うのだが、確かに、美味しそうな秋刀魚がかぼすの柑橘の香りと共に鮮やかになる。短歌とは、引いて引いてのデザインの感覚が必要とされるらしい。
3首だけ選んで票をいれるきまりなのだが、私は、4首目に選んでいた歌である。遠い花火から、最も、近い自分の肉体まで、ズームしてくるのが面白かった。それと、花火って、音が遅れてくる。
遠くで綺麗に散った花火の姿を観た後で、自分の心の中で、一瞬遅れて、ドンドンと鳴ったような響きが感じられた。
この歌は、言葉の流れが好き。誰か身内の死なのか、何か忙しい出来事から一年が経って、日々の日常が戻ってくる中、ふっと月の美しさに気が付いたというような作者のホッとした心が見えるような歌だと思った。
雲間から、光がサーっと差している光線が見えることがあるが、そのことを俳句用語で日矢(ひや)というのだそうだ。俳句の短歌より短い17文字に歌を収めるために生まれた言葉なのだろうか。
大島弓子氏の漫画で、その光線のことを登場人物が「レンブラント光線」と言っていた。レンブラントの絵は、必ず光源があるかのように一点から照らされているような絵だから、そう呼んでいたのだろう。
とても久しぶりに、レンブラント光線のことを思い出した。
私などは、つい、大仏の姿を想像してしまったのであるが、別に大仏とは言っていないのに、雲間の日矢を半眼の慈悲のまなざしに例えるのがうまい。いちばん票を集めていたのはえりりん先生の句だった。
同じ風景を見ていても、運んでくる言葉が他の人と違うのが先生の歌だと思った。
私の作った9月の歌は、
「油揚げ舞茸ワカメねぎ豆腐 みそひと匙で三十一文字に」
猛暑の中、バテないで済んだのは、この味噌汁のおかげ。
5人の方に選んでいただき、リズミカルで面白い、わらべ歌のよう、絵本が目に浮かんだ、みそひと匙とみそひともじ(三十一文字)をかけたアイデアがよい、味噌汁が飲みたくなる、と沢山感想を頂けた。私の短歌には時々くすっと笑いが起こるのが嬉しい。
得意満面で、ダンナに教えたら、
「お前、それはただ、並べただけだろ」と全く、相手にされない。
句会が終わった後、速攻、図書カードを作り、短歌の本を5冊借りてきた。いろいろな短歌を読んでみようと思った。
大好きな穂村弘。万葉集についての本、3冊(1冊は田辺聖子版)。俵万智が一青窈に短歌を教える本。
昔の、または現代のいろいろな歌を血肉にする。