短歌で日記 2023.8.12
毎日、食べるみそ汁のふくよかな美味しさをどう詠もう?と考えた。
日ごとに少しずつ具材や切り方の変化があるが、いつもカラダに沁みる間違いない味。そのうちに、三十一文字(みそひともじ)が、味噌ひと匙(みそひとさじ)と似ているなと発見。これは面白い!
自由人になってから、特に鳥の声をよく聴くようになった。
してみると、同じ声が時代劇のドラマで聞こえたのである。それは事件がすべて解決した大団円のシーンであった。平穏な日常が戻ってきたのだ。時代劇に重ねてみれば、毎朝、太陽の光が差すと同時に、ピチュチュチュと鳴く鳥の声を聴いている我が家は、朝から大団円だなと思う。そのまますぎるのがいいのか悪いのか。
一度、ノートに書き、また次の日、言葉を変えて書き、と、1回で歌を完成するよりは、舌の上で転がして、読み心地はいいのか?もっと違う表現はないのかと、少し、自分の中で、発酵するのを待つというか、もっといい別なフレーズとくっつけたり、繰り返し、詠んで、いろいろコラージュしてみるようになった。こねくり回した結果、初めが一番いいことも往々にしてあるけれども、えりりん先生の短歌教室にいくと、ほんの後一文字や、文語調に変えたり、順序で体言止めにしたり、少しの変化で歌が素敵になるのを目撃しているから、そこを、えりりん先生に直されるまでも無く、自分が気づいて直せるようになるぞ。
お盆が近いので、お盆バージョン笑。
煮物も作った直後よりも一回冷めて味が具材に浸み込んでいく感じがある。果たして、ぬか漬けと煮しめのどちらに軍配が上がるのか?
ちょっとほかして置く。時が教えてくれることがあるだろう。
私が三十一文字を携えているのは、大概、朝のウォーキングの時と、温泉に入るときである。朝の散歩で思いつき、スケッチして、三十一文字にはまるように歩きながらテンポを探る。
その後、温泉に出かけて、湯の中でまたじっくり反芻してみる。
5月か6月に、犬を引くわけでもなくただ歩いている自分が三十一文字は携えているということを詠んでみたが、裸で本当に何も持っていない自分の方が面白いのかと舞台を散歩から温泉に変えた。
初めは衣を脱いでいたが、毎日の温泉はそれだけでもない。
いろいろなものを脱ぎ捨てて、禊とか祓いとか、毎日リセットしている感じがある。
脱ぎ捨てているものを衣と憂さとダブルにして奥行きが出たと思う。
こうしみてると私は三十一文字という言葉が気に入っているし、このリズムもなんとも好ましく感じられる。
万葉の時代から日本人の中にある自然のリズムである。
万葉集が気になってきた。