退職の練習㊵読書感想文「ある男」平野啓一郎
映画の予告編で観たことがあったなと思った。
初めの数ページを読んだ途端にこの小説に引きずられた。
プロローグがおもしろい。
バーで出会った男性の身の上話を聞いていた作家。相手の男は作家と知るや否や、先ほどの自己紹介や身の上話は偽名で嘘だったと告白する。
その弁護士の彼が、この主人公であるという。
そしてその弁護士が担当した事件が、死亡した夫が、名乗っていた名前の人物とはまるで別人だった。というところから小説はスタートする。
その、偽名を使っていた男。
ミスターX。何のために、なぜ、他人の人生の情報を含めて、その名前を名乗っていたのだろうか?
なんというワクワクしたとんでもないプロローグだろう。
もう、先が知りたくて知りたくてしょうがない。
面白いのは、その調査にあたった弁護士が、その彼の行動を追体験することで、事件の核心に迫っていくというか、自分の人生の核心に迫っていくというか、人はシゴトであろうと、その影響を受けずにはいられない。
トルーマン・カポーティが、本当の殺人事件の冷酷無比な犯人を取材した「冷血」を最後に、小説を書いていないことが、取材することの、リスクを証明しているような気がするが、この小説の先行きも、本当に、気になるところである。
救いはこの他人の人生を名乗っていたある男は、妻にも子供にもとてもいい夫や父だったということだ。なぜ、彼は、他人の名前で暮らし、他人の思い出を語るという普通の人間がしないことをしたんだろう。
弁護士の城戸が真相に迫るまでの間に、いろいろな物語が語られる。それは、城戸自身の人生だったり、調査をしているうちに城戸の身辺に起こった出来事だったり、ある男の人生だったり、ある男と結婚していた女の人生だったり、いろいろだ。
この小説について、あらすじを書いてしまってはダメなので、どう書こうか困っているのが正直なところ。この記事を書き始めてから、放って置いては、また戻ってくることを繰り返している。
「いのちの停車場」を読んだ時も感じたことだが、私は、平野啓一郎氏の小説が好きだと感じた。しかし、この2つの好きはずいぶん違うスキだと気が付く。
南杏子氏の金沢に対する筆致、主人公が故郷に帰った時の郷愁や、主人公を取り巻く人々に対する親しみや、安心感がスキだと感じた。
しかし、平野氏の小説はそういう情緒的なものとは違っていて、なんだか渇いた品の良さがある。この小説の中に交錯する人々の人生は、決して居心地も良くは無いし、安心感も、郷愁というものとも無縁である。
これは、俳優やダンサーでいったら、佇まいが好き、ということなのだが、小説だと、どういうのか?その作家の文体がスキというのか?
嫌らしさとか、不愉快さとかがない。では、ただ心地よいのかというとそれも違う。描かれていることは、大変だったり、深刻だったり、ギリギリのことだったりするのだが、あくまでも、しん、としているというのか。
一見、ただの仕事上の付き合いの様である彼らが、事件を調べる中で、知り合いとなり、関係を持ち、互いの人生がそれぞれの方向に動いていく。
主な登場人物たちは、自分の人生を真摯に受け止めて生きている人々だ。
その描写の静けさが好きだなと思った。
自分が特に感銘をうけたところは、大人はオトナの理由でX氏のことを受け止められるのかもしれないが、X氏を父親として愛していた少年(血のつながっていない息子)が、そのことをどう受け止めるのかということだ。
その少年が、芥川龍之介の本を読んでいたり、自分が句を作っていたり、自分の痛みや不条理を乗り越えるために、文学に触れることや、自分を表現するという行為をしていた。
自分も、飼っていた犬が死んだときに、意味不明に音楽を聴いたり、犬の物語を書いたり、犬の肖像画を描いたりして悲しみを乗り越えた。
人間の大きな悲しみや喪失を乗り越えるということのために、文学や創作、表現する芸術はあるのではないかと考える作者の考えの片鱗がみえたようで、嬉しく思った。
読み終わってしばらくして、この本の表紙が、匿名の人間を表した「ある男」の表紙にぴったりだなと感じた。
アントニー・ゴームリーという彫刻家の作品を検索してみると、平野氏の小説を好きなように、この彫刻家のことも、かなり好きだと思う。
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