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〜「私」は家族の中で形成され、そして妨害される〜ハン・ガン『菜食主義者』


はじめに

最近、『菜食主義者』ハン・ガン著 を読んだので感想を書いておきたい。
ハン・ガン氏は今年ノーベル文学賞を受賞された方で、気になったので手に取った。「表紙の玉ねぎが可愛いな…」くらいの軽い気持ちで読み始めたけど、あえて予備知識がない状態で読めてよかったなと思っている(あらすじを知っていたら読まなかったかも…)

※ここからは、ネタバレを含む内容になるのでご注意下さい_(._.)_

あらすじは下記だ。菜食主義者になったヨンヘと彼女を取り巻く登場人物の視点から書かれた連作小説。平凡だった彼女が、突然冷蔵庫から「動物性」を感じる食材をすべて床に取り出していくような奇妙なシーンから始まり、だんだんと過激かつ生々しい表現が増えていき、人間の欲望や葛藤が垣間見える。苦しいのに読み進める手が止まらない。そんな小説だった。

ごく平凡な女だったはずの妻・ヨンヘが、ある日突然、肉食を拒否し、日に日にやせ細っていく姿を見つめる夫(「菜食主義者」)、妻の妹・ヨンヘを芸術的・性的対象として狂おしいほど求め、あるイメージの虜となってゆく姉の夫(「蒙古斑」)、変わり果てた妹、家を去った夫、幼い息子……脆くも崩れ始めた日常の中で、もがきながら進もうとする姉・インへ(「木の花火」)―
3人の目を通して語られる連作小説集

Amazon 購入ページより

「私」は家族の中で形成され、その家族によって「私」であることを妨害される。

これは訳者あとがきにあった文章で、読み終えて感想を書こうと思ったとき、思っていたことをすごく言語化してくれた。

本書は、芸術、家父長制、暴力…など色々な切り口から考察ができそうだが、今回は一番印象的だった、家族との関係性(特に姉)の観点から感想を書いてみたい。

主人公のヨンヘは、ある夢をきっかけに菜食主義者となるが、それは父親から幼少期に受けていた暴力をきっかけにできた心の傷が根っこにある。

幼少期、彼女の姉は当時から気遣いができたため、父親からの暴力の矛先は不器用なヨンヘへ向かった。ヨンヘは家族によって「私」であることを妨害されていた

夢で見たインスピレーションをもとに、木になりたいという欲望をもったヨンヘ、そしてヨンヘが持つ蒙古斑に対して異常なほどの欲情と芸術的な美しさを感じる義兄(姉の夫)。

これに対比するように、姉は「正常」であるかのように描かれるが、

「彼とヨンヘがあのように境界を突き破って走っていかなかったら、すべてを砂山のように崩さなかったら、崩れたのはまさに彼女だったかもしれないことを。再び崩れたら、戻ってこれなかっただろうことを。」

「彼女は生きたことがなかった。記憶できる幼い頃から、ただ耐えてきただけだった。」

という、作中の表現のように、家族によって「私」であることを妨害されてきた一番の被害者は姉でないかと思った。ヨンヘは家族から妨害さえされているものの、己の欲望にあるがままに生きている。そして、義兄も同じくである。

欲望を表に出すことがない姉であったが、ヨンヘを中心とした騒動をきっかけに、散らばっていった家族。家族にここまで囚われていたのに、いとも簡単に関係が崩れていった。そこに姉の強いやるせなさを感じた。まさに、耐えるだけの人生だったのだろう。

なぜ玉ねぎなのか?

表紙の玉ねぎの絵に惹かれてこの本を購入したからこそ、なぜ玉ねぎの絵が
モチーフとされているのかを考えてみたい。ちょっと安直すぎるかもしれないが、私は「隠された心・本心」の暗喩として玉ねぎを描いているのでは…と思っている。皮を何枚剥いても芯にたどり着けないように、主人公たちが持つ、見えない本心や欲望のようなものを表現している気がする。
本書にたくさん出てきた、草花のモチーフや、木などの「植物性」とも何かしら関係があるのかな…?とも思う。

とても苦しい作品だったのに、読み進める手が止まらない

性的な生々しいシーンや精神病棟でのシーンが頭にこびりつくようで、この本を読み続けるのはとても苦しかった。それなのに、「現実世界とかけ離れた話」と他人事のように感じることができなかった。それは、誰しもが持つ欲望を開放した先に、どんなことが起きるのか、それを目の当たりにしたいからなのかもしれない。

読み進める手が止まらなかった。

これから、ハン・ガン氏の他の作品や韓国文学にたくさん触れてみたい。

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