正しかったのに、報われなかった先生のはなし
忘れもしない、数Ⅰ担当の先生のこと。
担任の先生でもあった彼は、いま振り返ってみても教育熱心な人だった。
生徒たちが、中学生の時点で数学に躓いたり嫌いになったりしないように、色んな工夫を凝らしてくれていたことを覚えている。正直、数学が得意だったことは一度もないが、彼の説明は丁寧で板書も写しやすかったので、数学の授業にしては楽しかった。
そういえば、二次関数のグラフの変化を「チューリップの一生」になぞらえて説明する、とかいう謎な展開もあった。プリントを配るときに舌でペロッと指を舐める癖もあったな。あれだけは、どうもいただけなかった。
担任の先生としても、必要なことを簡潔に話してくれるタイプだったから、当時14歳だった私は、それなりに信頼していたと思う。無愛想で寡黙な人だったが、悪い人ではなかった。
そんなある日、事件は起こった。
彼の授業中、ある生徒が、隠れて携帯を触っていた。彼女は、過去にも同じことをして携帯を没収されたり、授業態度が悪く注意されたりしていた。
比較的真面目な生徒が多い学校で、私もその一人だったから、「なんで授業中にそんなことするかな」と腹立たしく思っていた。当時はガラケーだったから、面白みのないツールをわざわざ触る彼女の気も知れなかった。
いま思うと、あれは、携帯を触ることが目的ではなくて、少し悪ぶりたい時期の、中学生ならではの一種のいちびり行為だったんだろう。寡黙な中年の先生を、どこか馬鹿にして舐めていた生徒もそれなりにいたから、悪のヒーローのような気持ちだったのかもしれない。
私はそのとき、彼女の後方に座っていて、「また触ってる、やめとけばいいのに」と思っていた。案の定、間もなくして、それは先生にも見つかった。
そして、注意されてもなお悪びれない彼女を、先生が、軽くはたいたのだ。頭だったか、頬だったか。
時代性もあって、体罰等は一切ない学校だったから、それは、同じ空間にいた私たち他の生徒にも、かなりの衝撃を与えた。一瞬、何が起こったのか分からなかった。はたかれた彼女もぽかんとしていたが、少し経ってから、しくしく泣き始めた。長い間、静寂が教室を支配した。
彼女は携帯を没収され、重たい空気のまま授業は再開された。何度目かの注意だから、親にも連絡がいくかもしれない。クラスメイト全員の前で叱責されたうえ、もう一度親に怒られることを想像すると、可哀想だと思わないでもなかったが、自業自得ではあった。それからは、さすがに携帯を触る生徒はいなくなり、平和な日常が取り戻されたかのように思えた。
しかし事態は、予想外の顛末を迎えた。
ある日のホームルーム、先生は、クラスの担任と、数Ⅰの担当を外れることになった、と静かに伝えた。時期としてはあまりにも中途半端だったのに、満足な理由が提示されることもなかった。
生徒だけになった教室で、はたかれた彼女が、してやったりといった様子で、親に異議申し立てをしてもらったことを周囲に吹聴していた。どうやら、彼女の親が、体罰を行うような教師が担任だなんて子供を安心して任せられない、と激しく糾弾したようだった。
そんな馬鹿なことがあってたまるか、と思った。携帯を授業中に触ってよいはずがない。自分が正当なルールを破って怒られたからって、絶対的権力者である保護者に攻撃させるなんて卑怯だ。恥ずかしくないのか、と。
不器用ながら、きちんと生徒と向き合おうとしていた先生は、どんな気持ちで担任を降りることに承諾したんだろうか。到底、納得がいくはずもない理由で外されて。
芸能人の熱愛発覚を噂しているかのように盛り上がっている教室を、私は、憤りと悲しみを抱えながら、ひとり後にした。
その後、私たちの学年に、彼が関わることはとうとうなかった。職員室で見かけたときには、以前のように数学の質問をしにいきたい気持ちも芽生えたが、それはいまや少し不自然な行為にも思えたし、新しく担当になった先生にも失礼な気がした。それに私は、気兼ねなく話しかけられるような陽キャでもなかった。結局、卒業のときに軽く挨拶に行って、それが最後だった。
最近、意外なところで彼との再会を果たした。SNSの「知り合いかも」に表示されていたのだ。厄介だが、便利なものでもある。
恐る恐る開いてみると、釣った魚を手に笑っている先生の姿が目に飛び込んできた。楽しそうな、とても良い表情をしていた。もう、とうに定年を迎えているはずだ。私は、ホッとした心持ちのまま、そっとページを閉じた。
教師としては正しかったのに、報われなかった先生について、十数年越しに思いを巡らす。
先生、あなたを慕っていた生徒もいたんですけど、知っていましたか。
そういう気持ちって、どう伝えたらよかったんだろう。今でも分からないままだ。