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C'MON C'MON という未来、あるいはともだちという対等性についての脳内記録

愛おしく嬉しく好きすぎて
だから逆になおさらなるべくエモーショナルを使わない形での自分のための記録をしたい。

「C'MON C'MON」を見た。
子どものいない独身男性が、甥っ子と過ごす数日間を描いたこの映画。
切り口はいくつもあるのだろうけど、私にとっての一つは多分「ロール、役割理論からの解放」だった。

語りを通して編まれる世界

冒頭からの数分で、2019年に森美術館で開催された
「塩田千春展:魂が震える」
を思い出す。

あの会場の一番最後のコーナーではドイツのこどもたちのインタビュー映像が流れていた。

「魂について」の質問に対し、真摯に一つずつ応える彼らの言葉と表情にガイドされたイメージは、その後もずっと私の中に息づいていて、何か大きな出来事があるたびに立ち戻る場所となっている。「例えば、どこか素敵な場所のことを忘れてしまっても」と、深い色の目をした少女の話していたことなどが。

あるいはノッポさんが「小さいひと」という言葉で表し、谷川俊太郎が「一人の他者」としてと口にしていたこどもという存在が持つ力のことも浮かぶ。産んだことがない私はその視点に勇気をもらうけれどそれはまた別の話か。


本作の主人公(を誰とするか、はもしかしたらそれ自体が一つのテーマとなるかもしれない。仮にインタビュアのホアキンフェニックス演じるジョニーとすると)のライフワークはこどものインタビュー蒐集。

だから映画の中で何度もそのシーンが登場する。
それは、彼の仕事説明のためという枠を時間的にも内容的にも明らかに越え、それ自体が一つの作品として機能する量だった。現代アメリカに住む小さい人たちの言葉は、台本がない中で語られたという。

映画の節々に縫い込まれた彼らの生のスピーチは、スクリーンを超え、鑑賞者と演者の壁を越え、徐々に空間に浸透し、かつてこどもだった私へ作用し始める。当時の感じ方や思いをフラッシュバックさせる。当事者性が何もかもから滲み出で、全てを包んでいった。

そしてそれは、”突きつける”ではなく、木漏れ日のように柔らかな手触りで行われていた。皆この映画のことを語るときにほんのり優しい顔をするのだ、と数日経ってから気づく。当事者になることが、直面化の痛み以上に解放へと作用するということ。それがおこり得るということの…凄み。

だからものすごく、そこに興味が湧いた。
意図的に丁寧に設定されていることの深さに。

設定された骨格のイメージ

  • モノクローム

  • 進取的な人間としてのジョニー

  • 限定された場でのパターナリズムの発動

  • ロールを感知する色眼鏡を使わずに接すること

  • 対等ということの怖さ

  • ただ尊重し合っている存在としての「ともだち」

例えば、まずはモノクロームであること。だから皆自分の思い浮かべる色でこの世界を見ることができる。色によって生まれる固定概念から、自由な状態になる。同時に過去を見るような感覚で物語の中へ自然に入り込んでいく。

例えば、ジョニーは進取的な好ましい人間として存在する。小さな人たちの“そのままの声”を、カテゴライズも物語化も真摯に慎重に避け、受け取ったまま記録することに心を砕く。仕事は基本的に出社せずスーツも着ず自分で行き先をカスタマイズ。いわゆる家庭や会社や家父長制という従来のパターナリズムからは少し外れた場所に立ち、母への態度もユマニチュードのお手本のよう。

そのジョニーが妹ヴィヴへ接しはじめた時、なぜか「母」で「妻」で「介護者」でという役割を相手にしている様子しかみえてこなかった。そのロールに対する旧態依然でよくある視点は、知性と優しさとが溢れ、良識と自由な心を持つようなジョニーのポジションから発せられることで、より歪さとして立ってくる。

基本的に映画はジョニーの立場から進む。だから鑑賞者は、なぜ ”かわいそうな” ヴィヴが振り回されてばかりで、なぜ ”子供” であるジェシーや ”夫” であるポールが面倒ばかり起こすのか、についてジョニーと同じように混乱しやきもきし不安になることで、ちゃんとゆっくりジョニーと共に時間を体感していくことができる。

「なぜママと普通に話さないの?」
という何度か繰り返されるジェシーの言葉の意味をその通りに受け取った時、見える世界の景色はくっきりと変わるはずだ。

この時点の ”普通に” は物語序盤で出てくる、ジョニーがなぜ ”普通” のこどものようにできないのかとジェシーに問うたことと、リンクしているのだろう。し、普通ということについての意味を極限に詰める。普通という言葉を…集合他者との平均値で出した檻ではなく、自分にとっての自然な振る舞いという位置に取り戻すことは、本当にたくさんの人を救うのじゃないかな。

ロールでやり取りをすると、その奥にいる人間としての個人と向き合わなくてすむからパターンでの対応ができる。それは一見とても楽だ。日本で店員さんを無視するタイプの所作を見かけるようなこと。

生というのはグニョグニョしていて柔らかく…そう、怖いものだから。
でも自分を動員しない傷つかなくて良い代償は、誰も自分を人間として触ってこないことと直結する。そしてそれは徐々に自身を磨耗させる。ただの表面的な関わりだけが通り過ぎていくうち、生(live)の手触りは消失し、私じゃなきゃいけないものなんて、何も無くなってしまったのではないかと皆が不安を増幅させる。

母とか妻とか女とか関係ない一人の人間としての存在へ、敬意を持ってやりとりすることも、おとなとかこどもとかいう括りに存在しているものが上下関係ではないということに立つことも、その上でわからないことをわかり合いたいと願い交わせることも。

なんて手間がかかり、なんと時間がかかり、前例がなく、傷つきやすく、面倒に感じることだろう。

でもだからこそ、それが通じた瞬間一瞬は
その場でしか起こらない、ものすごい奇跡へ変貌する。

平田オリザ氏の「わかりあえないことから」あるいはドミニク・チェン氏の「未来をつくる言葉/わかりあえなさをつなぐために」の中で触れられているような。


ジェシーは「おじさん」とは言わなかった。父母の代わりでも、親族の代表でもない、ジョニーに「ともだち」という称号を付与している。

ともだち、は自分の意志で選び選ばれるもの。皆がロールを脱した先の、尊厳のもとで結ばれる関係性のこと。そんな形で誰かとむき会えることは、それはきっと、それが未来だって気がする。上でも下でもない。便宜的でも縛りでもない。

尊敬する音楽家、青葉市子さんが、とてもとても前におっしゃっていた「例えば役所の人とか店員さんとかその”役割”ではなく、その向こう側にいる”人”に話していると思うと気持ちは通じることが多いですよ。」という何度も何度も支えにしている言葉のこともふっと重なる。何度も何度もこうやってそこに立ち戻るように教えてもらう。

水瓶座的な未来の世界が来るとしたら


そうだ、思い出したことは後二つ。一つは「君と僕との虹色の世界」のことで、(でもそれはマイクミルズとミランダジュライの関係性のせいではない。)後もう一つは初めて4次元の概念を心から理解した大好きなインターステラー。あの映画でそのさらに上位次元の要素は愛だった。はず。

上のものを下のものの如く、下のものを上のものの如く、はヘルメスの有名な錬金術の極意だけど、今回の上下をないものとして扱うときに生まれうるものは愛な気がしていて、だから錬金術が生み出す金(価値あるもの)とはつまり愛であり、それが可能になった時に展開する世界が次元上昇ってことなんじゃないの?と思ったり

したんだけど論理が飛躍しすぎなんだろう。

頭の整理が終わらないまま、世界はまだ考えるに値する美しい場所。とか反芻して喜ぶ行為におちいっているのだけどあんまりにも長くなりすぎたので今日はこの辺でおしまいにします。

そうそう、インスタに投稿しようとしたら、最大文字数2200なんだって。その総量の中で物事をまとめられるようになりたいと思う所存です。でもまぁ一生懸命考えたのでこちらはノートへ。

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