元教員から有機農業の現場へ――新たな農業の可能性を追い求め”行動”し続ける社長の挑戦
「農業現場から心の教育を!」
いまから23年前、そんな熱い思いを胸に、福岡とブラジルでの教師生活から、全くの見ず知らずの町であった綾町へ移住し、就農を果たした綾・早川農苑の社長 奥誠司さん。
なぜ、体験型農業教育の理想のカタチを追求するのか――
今回は、そんな綾・早川農苑の大黒柱である奥誠司社長(以下社長)に迫ります。
坂本龍馬の「行動力」に憧れた青年時代
――まずは、有機農業に携わるようになる前までの、社長のご経歴について教えてください。
社長「1988年から1991年頃まで、福岡で中学校の社会科教諭として3年間教員生活を送っていました。学生時代から野球部だったのもあり、赴任先でもずっと野球部の顧問をしていました。この頃は、自分自身でも、まさか中学校の社会科教諭から有機農業へ転職していくとは、夢にも思っていませんでしたね。」
――その後、福岡の中学校を退職され、ブラジルへ旅立たれることになったんですね。
社長「そうですね。福岡の中学校で授かった学年が3年間持ち上がりで、ちょうど卒業のタイミングでの決心でした。私にとって、最初で最後の卒業生として、彼ら彼女らは今でも一生の宝物です!
ただ、その当時、海外での生活体験で自分を磨きたい、という強い思いが最高潮に達していましたし、大学時代に憧れていた坂本龍馬に倣って、頭でいろいろと考えるだけではなく、思ったことは即行動に移そうというポリシーがありました。もちろん、当時の同僚など、いろんな方から、なぜ辞めるのか何度も質問されましたが、私の答えは”夢を追いかけたいから”の一言。今考えると、まだまだ青二才でお恥ずかしいのですが、猪突猛進が私の行動パターンでしたね。」
――当時から、熱い思いに真っ直ぐ突き動かされ、行動し続ける社長のお人柄が感じられるエピソードですね。ブラジルでは、どのような生活を送られていたのでしょうか?
社長「福岡の中学校を退職後、約1年半ほどの準備期間を経て、1993年よりJICA派遣の日本語教師(野球部監督等含む)として、ブラジルのヴィトリアに3年間滞在しました。
滞在中は、アルゼンチン、チリ、パラグアイ、ウルグアイといった周辺の国々を見て回る機会もあり、”海外から見た日本”を学び、知ることができました。いろんな角度から物事を見る大切さに気づき、自分自身の物差しを養える本当に貴重な経験でした。」
――海を渡っても、龍馬のように様々な人と交流し、新しい考え方や情報を常に吸収されていたんですね。
社長「実は、学生時代に購入した龍馬の大きなポスターも、私と一緒に海を渡っていたんですよ。ブラジルのアパートの一角で、私の行動をずっと見続け、見守ってくれていましたね。」
有機農業を広めるため奮闘した「猪突猛進」の日々
――福岡での中学校教師とブラジルでの日本語教師生活を経て、有機農業を広める活動をされるようになった経緯を教えてください。
社長「帰国後は、日本全国各地を巡る旅を挟み、とある町へたどり着きました。そこが、まさに宮崎県綾町です。
雄大な自然に囲まれた綾町へ移住し、綾町農協青年部副部長として、食育を担当することになりました。その頃から有機農業を広めるお手伝いをするようになったんです。」
――有機農業を広める活動をされるにあたり、最初は苦労されたこともありましたか?
社長「現在も20年以上続いている、綾町の小学生を対象とした綾町農協青年部主催の”お米学習”という総合学習の授業があるんですが、当時は青年部副部長の立場として、とにかく食育事業を盛り上げたい一心で、メンバーと協議し、100パーセント無農薬無化学肥料栽培で行こうと決めました。
しかし、実際にいざやるとなると、”誰がやる?ずっとやり続けるのか?”という様々な反発もたくさんあり、結果として、それでも”やろう”と決めた私を含め、たった4名のみでひたすら草取りを行う日々が始まりました。」
――移住した町で、多くの反発もあったなか、たった4名で毎日草取りから始められたとは……やはり、当時から社長の「決断力」と「行動力」は特筆すべき点がありますね。
社長「ただ、メンバーは大変でした。水が入った田んぼで、足はぬかるみ、1時間以上も腰を曲げ続け、それを毎日延々と……。途中、提案した私としては申し訳ない気持ちで、こっそり一人でやったりもしていましたね。ボランティア事業なので、人には強制できませんし、作業をすればするほど、農業経営としてはマイナスになります。そのあたりは、内面的な葛藤もありましたね。
しかし、やり続けた結果、無農薬1年目にして、収穫量は減少したものの、何とか事業として成立させられました。」
――当時のメンバーの方々と、社長ご自身の人一倍の努力が実ったんですね。
社長「そうですね。2年目はもう少し要領良くできるようになり、収穫量もアップしましたし、それ以降は順調に、”綾町の小学校のお米学習は無農薬で”というのを定着させられました。
”夢はあきらめなければ必ず実現する”と実感しましたね。明確な目標をもって、それをやり抜く意思があり、あきらめずにやり続けていけば、道は開けます。」
「土」を大切にという理念に共鳴し、就農へ
――有機農業を広める活動がきっかけで奥様と出会い、ご結婚され、お義母様である早川ゆりさんが創立された「綾・早川農苑」で本格的に就農されることになったんですね。
社長「はい。創立者の理念である「土」を大切にという点に共鳴し、これまでの綾・早川農苑の歩みを糧として、新たな「農業の可能性」にチャレンジしていきたいと思いました。お義母さんと、奥さんと、私の3人で、それから力をあわせ、綾・早川農苑を盛り上げていきました。
そして、2021年4月より、先代から引き継ぐ形で、綾・早川農苑(有限会社シードカルチャー)の社長に就任しました。」
――綾・早川農苑では、農業体験や農苑ランチ、加工品の販売など、様々なお取り組みをされていますね。
社長「コロナ禍以前までは、日本全国各地や、香港や台湾といった海外からも数多くの農業研修生を積極的に受け入れていました。現在は、新たな取り組みとして、オンライン農業体験も実施しています。
また、ネットショップ上での有機野菜や加工品販売にも、今後さらに力を注いでいきたいと考えています。日本全国のみなさんにもぜひ、綾町の美味しい空気ときれいな水、栄養満点の土、そして最高の環境で育った有機野菜の美味しさをお届けしたいです。」
体験型農業教育の理想のカタチを追求
――2012年に任意団体の教育ファーム宮崎・綾を設立後、教育現場に復帰され、2014年のNPO法人化と同年に「綾・農業寺子屋」プロジェクトをスタートされていますね。
社長「私にはずっと、綾町の行政や住民の方々とともに、この地域から有機農業の素晴らしさを発信できる企業へと成長していきたいという思いがありました。そして、”生産者と消費者が共に学びあえる学校のような空間を作り上げたい”という理想も思い描いていました。
そんな理想を実際にカタチにしたのが、「綾・農業寺子屋」です。綾町の小中学生を対象に、地元の農業者のみなさんのご協力のもと、苗植え、栽培、収穫など本格的な農業を体験できるプログラムを毎年用意しています。」
――綾・農業寺子屋では、農業体験だけではなく、昔ながらの遊び体験や、収穫したての野菜を使用した料理体験など、様々なプログラムが充実している点も印象的です。
社長「畑作業の他にも、川遊び、魚釣り、こま遊びなどといった、昔ながらの遊び体験や、とれたての新鮮な野菜の料理体験などを通して、綾町の小中学生たちにぜひ、ふるさと綾の魅力を再発見してもらいたいんです。
最近の子は、スマホやタブレットで動画を見たり、ゲームをする機会が多いと思いますが、綾・農業寺子屋で地元住民の方々と一緒に遊ぶ子どもたちは、毎年とても楽しそうにしていますね。そういう”実体験”を通して、子どもたちの心も健やかに育まれていくのではないかと思います。」
――綾・農業寺子屋の年間プログラム修了時には、毎年「修了式」も実施されていますね。
社長「綾のすばらしい大自然を舞台に、地元住民の方々や異学年のこどもたちとの様々な交流と体験学習を通して、綾町の小中学生たち一人一人の成長を親御さんたちとともに毎年見届けています。」
有機農業を通して国境を越えた教育に挑戦
――最後に、社長の今後の展望などありましたら、ぜひお聞かせください。
社長「引き続き、実地とオンライン問わず農業体験の受け入れや、綾・農業寺子屋プロジェクトを継続させていきたいと考えています。そして、将来的には、有機農業を通して、世界中の方々に日本語や日本の文化を学んでいただけるような機会も増やしていきたいですね。
実は有機農業の教育事業推進に向けて、YouTubeにも挑戦しているんですよ。まだまだ勉強中ですが、何とか未来につなげていきたいです。
良い思い出も、苦い思い出も、行動し続けるからこそ残るのであって、何もしなければ何も残らないですよね。だからこそ、これからも”行動”あるのみです。」
(取材・執筆:mariya)