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身を護りながらハグはできるのだろうか

人付き合いには、色々なグラデーションがある。


挨拶程度の知人
遠いところに住む親戚
たまに会う友人
毎日会話する相手
などなど


計り知れないほどの様々なグラデーションで形作られる人間関係の中で、その関係に適切な距離があると思う。


表面的な関係であれば、距離は少し遠目に設定する。

相性がいいかどうかも関係ないし、お互いに踏み込み合わない距離感で居ておくと、心地よさを感じる。

そして、お互いに近寄りたいと思えるなら、その適切な距離をはかってみる。

それぞれ、人には自分固有の快適空間(パーソナルスペース)があるので、赤の他人に踏み込まれると物凄い負荷がかかる。
満員電車のストレスは、そういうことだ。


そして、心の内を打ち明け合える気兼ねない関係の相手とは、常に心のハグができるほどの距離感になることもできる。


それは、弱いところをさらけ出す関係になる。

情けない私や、恥ずかしい私、
感情をあらわに、泣いたり笑ったり。

自分のことさえわからなくて、戸惑ったり苦しくなったり。
そんな、ある意味今まで隠してきたような、自分のタブーに触れるような姿を見せる覚悟がそこには求められる。

腹の底から相手を信頼し、常に相手に対する尊敬の気持ちとともに交流する。
それは、まるで会話を使ってハグするような、そんな繊細で宝物のような交流になる。



そしてふと、思った。


もしも、
傷つきたくない
嫌われたくない
と不安に思いながら、相手に対する腹の底からの信頼と尊敬の気持ちが持てないまま、ハグをしろと言われたとしたら、どうなるんだろう、と。


木の陰から、恐る恐る差し出す


それはまるで、大きな木の陰に身を隠しながら、もしこれが嫌いだったらどうしようと不安でいっぱいな気持ちを抱えながら、恐る恐る差し出す蜜柑みたいなものかもしれない、と思った。


ハグした瞬間、鯖折りされたらどうしよう。

そんな不安を抱きしめながら、力んだ身体で腰を引けさせ、ハグする振りをしてみたり。
いっそエアーハグで済ませてみたり。


そこには、密着する温かさや安心感とは程遠い、薄氷を踏むような心細さがあったりするかもしれない。

なんとかハグしてみせようと、健気に何度も試みてみる。


蜜柑を手渡そうとしてみるけれど、過去に他の人に贈り物を手渡そうとしたとき、嫌そうな顔をされたことや、手から叩き落された悲しい記憶が蘇り、どうしても正面から渡しに行くことができなくて、そっと離れた木の陰から手を伸ばしてみる。

私のインスタ

だけど、少し離れたところで浮かれているお友だちには、手の上の蜜柑は見えてなくて。


そんな風になるのかもしれない、とふと思った。



後でそのことを伝えたら、お友だちは

蜜柑に気がつかなくてごめんね

と言ってくれるかもしれない。
だけど、木の陰からちらっと見えてる蜜柑に気がつくのも、なかなか難易度が高いのではないだろうか。



ハグの温かさや安心感を感じるために、なんとかハグしようとやみくもに努力するのはとても大変なのだと思う。

まず、ハグをする相手が自分に鯖折りを仕掛けてこないという安心感や、相手の体温の温かさをじんわり感じてみようと思えること。
そして、この人とともに何があっても大丈夫と思える確信。
相手への揺るぎない尊敬と尊重の思い。


そういうものを、お互いにじっくりと育めるかどうかが、なによりまずは、大切になるのかもしれない。

そしてその先に、
何も怖いことがない、安心して温かいハグに癒やされていく世界が広がっていくのだろう。





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