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お裾分けされない、庭の柿
「うちの庭に柿の木があってね、つける実がとても甘いのよ〜♥」
という話を、知り合いから聞かされる。
「へえ。素敵ですね~」
なんて思いながら話を聞いて居るけれど、いつまで経っても、その柿の甘さを私が体感することはない。
「また今年も、庭の柿に実が成ってね、とっても甘くて美味しいの。素晴らしいわぁ〜♥」
毎回、そんな話を聞くのだが、そのうちその話には興味がなくなる。
知り合いがその話をしだす前に、しれっとその場から消えることが増える。
これって、お裾分けしてもらえないから、拗ねているのかな?
なんて思ってみたけれど、どうもそういう訳ではない。
甘い柿が食べたいとき、わたしはそれを売っていたり、配っている人からすぐ手に入れている。
食べたいときに食べているので、特にお裾分けがなくて悔しいわけではなかった。
人というものは、体感するために生きている。
例えば
「実家から送られてきた柿が沢山あるから、良ければお1つどうぞ」
なんてお裾分けしていただけば、その人の実家の柿が、どんな風味でどのくらい甘いのかが体感できる。
途端に、その柿に親しみが湧くのだ。
お裾分けされない柿に対して、興味を持てる人など居るのだろうか。
どんなに素敵な柿なのだと言われたところで、絵に描いた餅によだれが垂れることはないのだろうと思う。
この話は完全なる比喩なのですが、こういったことが日常でもちょいちょい起きている気がしました。