「遊びの跡」の真空パック保存との思わぬ再開…自分の中にある根っこを感じた話
実家に帰省中の今、息子と遊べるものは何かないかなと、当時の私の部屋の押入れを漁っていると懐かしいものが出てきた。
幼い頃大好きだった「シルバニア人形」のおもちゃたち。
記憶の中では幼稚園〜小学校三年生くらいまで、ずっと飽きずに遊び続けていたような気がする。
シルバニア人形の入っていたケースをひっくり返すと、何やら色々と面白いものが出てきたのだ。
メモ帳の切れ端やら爪楊枝やら、宝物だったビーズやら。
暮らしの身近にあるものだけで、よくもまぁ、こんなに発想力豊かに、そしてなかなか器用に作ったな〜と我ながら感心してしまった(笑)
そして「これだけは捨てられなくてね〜」と言って捨てずに取っておいてくれた母に感謝。一見みたらゴミくずみたいな物たちを(笑)
こんな懐かしき物たちを眺めてたら、たちまちどこでもドアでその頃にタイムスリップしてしまった。
「こんな風にこちょこちょ小さな工作するの好きだったなあ〜」とか、
「あの角の家の〇〇ちゃんとよく遊んでいたな〜」とか、
「あそこのマンションから向こうの〇〇の家まで全部使ってかくれんぼしてたっけな〜」とか、
たちまち、ぼやっとしていた記憶が鮮やかに浮かび上がってくる不思議。
学生時代の友達と久々に再会すると、すぐにその頃の空気に戻って楽しいのと同じように。
あの頃の自分に会えた気がして一人で盛り上がってしまった。
これはまさに「遊びの跡の真空パック」だ。
こどもの遊びに携わる仕事をする人の中で、「遊びの跡」を見るのが好きっていう人は一定数いると思う。私ももれなくその一人だ。
片付けをした後にも残る遊びの跡。
特にわかりやすいのが子どもたちが去った跡の砂場。
「あー今日はダムの工事が忙しかったんだろうな〜」っていう凸凹とか、「お客さんいっぱいきてたもんね〜」というように崩れかけた砂のお団子が並んでいたり、葉っぱやどんぐりが砂に埋められていたり。
それから工作の机。
「あの人形に着せる服、くり抜いたんだな〜」っていう紙の切れ端が落ちてたり、「一生懸命箱と箱をくっつけようとしたけど、ぐちゃぐちゃになっちゃったんだろうな〜」っていうセロテープの塊が机にくっついていたり。
「あの子があそこで黙々とやっていたのは、これだったのね!」という試行錯誤した跡や、工夫した跡、はたまた「いいこと閃いちゃった〜!」みたいな、そんな彼らの心踊る情景が私の心に入ってきて、自分も一緒に遊んじゃったような嬉しい気持ちをもらうのだ。
綺麗さっぱり片付けてしまうのが惜しいくらいに、とびきり愛おしいのだ。
毎日毎日、「あーこの跡、真空パックにしておきたい!」て思っていた。
(もちろん、翌日につながるようにあえて残しておく、なんてこともよくあること。)
そんな彼らの遊びの跡を見て、もう一つ思うことは。
「こんなことまで閃いちゃうのね〜!」という驚きや、表現しようとするエネルギー!!そして「遊んだぞ!」という多幸感。
「自分って幼い頃こんなに遊んでいたかな?すごいなあ」といつもいつも、純粋に感心してしまうのだ。
今日、こんな風にして思いもよらず、幼い日の自分の遊び跡の真空パックに出会うことができたのだ。
純粋に懐かしく、たまらなく嬉しかった。
そしてもう一つ思ったことは。
「私、とことん遊んできて良かったね!」と、小さな自分を抱きしめてあげたくなった。
私はこの「シルバニア人形」をきっかけにして、ごっこ遊びや空想の世界で遊ぶことが大好きになっていった。(…ということを思い出した。)
「そのへんにあるものも工夫すれば意外と使えるじゃん!」
「足りないものは作ればいいよね!」
「イメージが形になるって嬉しいなー!」
「どんどん作り変え続けていけるって最高!」
「なりたい役には何だってなれるし、どんな所へもいけるし、こんなこともできる!」
みたいなことを、ごっこ遊びの中で感じ、体得してきたように思う。
それは大人になった今、感じていること。
でも、当時の小さな私はそんなこと一ミリも考えているわけもなく、
ただただ「ワクワクする気持ち」が、すべての遊びの原動力だったことだけは確かだ。
「楽しそうじゃん!やってみちゃおう!」
そんな心の弾みは、遊び跡の真空パックがなくたって、やっぱり今でも鮮やかに思い出せる。
こんな風に遊び育ってきた記憶たちが、今の私を形づくる原風景なのだろう。
その原風景が今も脈々とあってこそ、「その子の内から湧き出したやってみたい!の気持ちが大切にされ、子どもたちが自由に遊べる社会を守りたい」と、私は強く思うのだ。