われわれはそもそも何を目指しているのか ―永井均「遺稿焼却問題」より―
・序
本論は永井均「遺稿焼却問題」より、永井の瞑想関連の記述を抜き出してリプライを加えたものである。本論などと大袈裟に書くまでもなく、普段するように読んだ本をまとめていたところ、たまたま疑問が疑問を読んで追求する形になっただけのことで、だからこれは単なる読書録の一部ではある。しかしここで登場する二つの区別「苦しみ/悩み」「第一図志向(半動物的状態)/第五図志向(半神的状態)」は、重要に思われる。少なくとも、この区別が明確になっていないといくら瞑想しても迷走してしまうのではないか、と思われるくらいには。
下記では「遺稿焼却問題」の引用に対するリプライの形で論を展開していく。引用と同様の体裁で出典元がないものは注釈で、冒頭に*印が付してある。
・苦しみと悩み
苦しみと悩みの区別。悩みはなくなっても、苦しみはなくならないのではないか。実際、赤ちゃんには悩みはないが苦しみはあるだろうし。瞑想により滅することができるのはまさに「言語が制御を離れて自動的にはたらく」ことに関するもので、それはつまるところ「自己対象化による他人や他時点の自己との対比において生じるもの」ではないか(苦しみと区別する意味で、それらだけを悩みと呼びたい)。
悩みが消えても苦しみは消えない。概して赤ちゃんというのは痛みや空腹や眠気や寂しさや寒さやオムツの蒸れなどの苦しみを訴えるものだし、犬や猫にだって苦しみはある。単純に、生物が忌避すべき「負の感覚実質」というのはなくならない――というか正負の別なく「感覚実質」そのものは無くならないのではないか。
あるいは激しい痛みや掻痒感などであっても、それをよく観ることで、その感覚に精神が領されることから免れる、のだろうか。激しい痛みに見舞われてその痛みを痛がるということさえ、「放逸」と呼べるだろうか。仮にそれらを放逸に含めるとして、さらにそうした放逸をさえ退けて無放逸の状態に至ることが可能だとしても、それは少なくとも赤ちゃんや動物がそうであるような在り方とはまた別だろう。内山興正「進みと安らい」に登場する図(以下内山図)で言うと、赤ちゃんや動物が第一図であるとして、ここでの無放逸は第五図的な在り方をしている*。それは少なくとも、第三図、第四図を経なければ実現しないだろう(つまり言語による世界把握が無ければたどり着けない視座と言える)。当然、それは「本来の自然な状態」ではない。
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本論を読む方が万一存在した場合に備え、念のため付け加えておくと、第一図は「各々が隔絶された図」、第四図は「舞台上でネガティブな要素から逃れポジティブな要素へ向かって走る人々の図」、第五図は「第四図がまるごと頭のなかに入った状態で坐禅している人の図」として表現されている。第一図は個々の主体が言葉によって通じる前の動物的状態、第四図は言葉によって通じ合った人々が言葉で作られた舞台(つまり社会)へ自らを投げ出し、役柄を役柄と思わず演じている状態、第五図は、第四図的世界そのものが実は自分のアタマで起こっていることに過ぎず、森羅万象はまさに〈私〉において生じているのだという事実に覚醒した状態、としてここでは捉えている。
内山図については「内山興正 図」で画像検索すると出て来る。
ここには何か、重大な問題がひそんでいはしないか。生きるということについての重大な問題が。自分にとってはおなじみの、ベルクソンの「精神の半神的状態/精神の半動物的状態」というあの対比にまつわる問題だ。少なくとも感情感覚については率直な態度を取るのが「本来の自然な状態」だとして、ヴィパッサナー瞑想がこの地平を目指しているのだとしたら、それら感情感覚に精神が領されること自体は放逸と呼ぶべきでないことになる。他方、喜怒哀楽や快不快を含め、そもそも精神を領するということそのものを全面的に放逸とするのなら、これを放逐した無放逸の状態とは外目に見ると「無関心/不感症/離人症」とでも形容すべきものになりそうではある(ふと中島敦「名人伝」の紀昌のあの最終形態を想起した……)。
・瞑想における目標設定の問題
どちらを目指すかというのは、何かしら決定的に異なるところがあるような気がするのだが、その差異というのは「(感情はもとより)感覚が精神を領することを放逸に含めるかどうか」という点だけに依るのか、もっと細分化できるのか。この差異を明示できれば、それがそのままベルクソンの「半動物的/半神的」という対比における差異ということになり、この問いにまつわるもやもやは解消されることになりそうだがどうだろう。
ベルクソン本人は、「半動物的」を「問題がそもそも生起しない」と、「半神的」を「問題が生起しても知的側面がそれを無効化する」というようなことを、それぞれ語っていたように記憶しているが……。後者は明らかにヴィパッサナー瞑想におけるサティを連想させる。
もとの文を引用しよう。
そう、「人間的な弱点から人為的な問題を出したくなるような誘惑を感じない」というのが「半神的状態」だ。上記抜粋でベルクソンが標的としているものは、まさにここで言うところの「悩み」だと言える。
例えばニーチェが「せむしの背中からこぶを取ると、彼の精神まで取ったことになる」と言ったあの言葉にもまた、「苦しみ/悩み」の区別を導入したい。つまり、同情は「苦しみ」を「悩み」と化すからよろしくないのだ、と。己のその端的な苦しみは、誰かに同情されると途端、客観的世界に位置を持ってしまう。それが「哀れまれるべきこと」だと気づかされた途端、端的な苦しみは悩みへと変容してしまう。同情はまさに「人間的な弱点」を突き、そこから「人為的な問題」を引きだす。いや、同情そのものが、対象を「人為的な問題」と見なすことそのものだ*。
だからベルクソンに反して、「問題を一つも提起しないような存在の半動物的な状態」というのにも良さがある。苦しみは苦しみとして、喜びは喜びとして、見舞われた何もかもを対象化することなく「それそのもの」としてただ享受するというのは、明らかに喜ばしい在り方だろう。他方で、「人間的な弱点から人為的な問題を出したくなるような誘惑を感じない精神の半神的な状態」もそれはそれで良い在り方ではある。問題は、ここで言われているところの「問題」の範囲だ。
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1、「問題」の範囲を単純に「悩み」だけに限れば、最終的なゴールについては実は半動物的状態と大差ない
2、「問題」の範囲を「悩み」に加えて「苦しみ」にまで拡大すると、最終的なゴールは半動物的状態の目指すそれとは異なる(それこそ真の「半神的状態」?)
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というように、ベルクソンの推奨する「半神的状態」にもまた「悩み/苦しみ」の区別によって二様の方向性がありうる。
2の場合。転んで膝を擦りむいて泣きそうなくらい痛いのに敢えてそれをせず、ただ痛みをよく観ることで感覚を客観化し、「痛みはただそうしてあるが、痛がることはない」という状態へ持っていくとして、それは明らかに「赤ちゃんや動物」のような「本来の自然な」状態ではない。ここにはやはり、「第一図志向(半動物的状態)」か「第五図志向(半神的状態)」か、という方向性の違いがあるだろう。それは似ているようで異なるように思われるが、具体的にはどこに異同があるのか。
・反省の軸
例えば本書で永井は、仏教瞑想界隈における「思考」の扱いについて以下のように批判する。
これは、仏教瞑想界隈がおおむね「第一図志向(半動物的状態)」である(か、そもそもここで語ろうとしているようなことについて整理がついていない)一方で、永井は「第五図志向(半神的状態)」として、対比されているように読める。
また永井は以下のように言う。
本論に最も関係が深いであろう一節。つまり、これまでの議論は「反省の軸をどこに置くかという問題」を問うてきたと言える。反省の軸を「瞑想中」に置くことが「第五図志向(半神的状態)」に、「瞑想外」に置くことが「第一図志向(半動物的状態)」に、それぞれ対応する。厳密に言うと、生全体を常に瞑想中のものとして眺めるのが「第五図志向(半神的状態)」に対して、瞑想をあくまでも道具として用いることで、生きることから「悩み」のみを放逐するのが「第一図志向(半動物的状態)」ということになる。
反省の軸を瞑想外に置いた際、「対象化して捉えるという操作によってこの構造を解消することは不可能」であるのは、感情感覚の範囲に限られる。つまりここでは「苦しみ」のみであり、「悩み」そのものはこの場合においても、それこそ「問題固有の知的側面が直観のひき起こす知的反面によって阻止される」。悩みとは苦しみ(つまりネガティヴな感情)を引き起こす原因ではあっても、感情そのものではないから。
例えば「後悔している」とは精確に言うと「自分の過去の出来事を可能的に捉えたうえで他の可能性と比較検討した結果苦しみが生じている」となる。苦しみが生じる理由の部分がつまり「言語が制御を離れて自動的にはたらく」箇所であり、ここを洞察すればその自動的な働きが止まるので、苦しみもまた止まる(もし止まらなかったら他に原因があるか、あるいは無理由的なものかのどちらかだろう)。なぜ止まるのかというと、その悩みの所在がまさに「自己相対化による他者(および他時点の自己)との同格化」によって開かれた場にあるので、悩みの構造そのものに気づきそこから超出することで、自分自身そもそもそうした比較を絶しているということが同時に示されるからだろう。つまり内山図を用いて表現すると、悩みは第四図的なものなので、第五図的視座のもとでは無化される、ということになる(p123抜粋で永井は「対象化して捉えるという操作によってこの構造を解消することは(真に怒っている場合は)不可能」と言う。確かに「(そこに)怒りがある」と捉えることは効力を持たないとしても、その怒りの原因が悩みであるということを洞察できれば感情は消えるように思われる――というのは「哲学の賑やかな呟き」で地橋秀雄「ブッダの瞑想法」について言及した文章のなかで永井自身が語ったことではなかったか)。
他方で、感覚の場合には、その原因を洞察できたところで感覚そのものはなくならない。「この痛みは腕の切り傷から来るものだ」ということがわかったところで、その原因の所在は意味的に構成されたものではなく「現にある」ものなので、そこから超出することができない。超出しようにも超出する先がそもそもない。同様に、当たり前だが原因のない悲しみや喜びといった感情についても、原因がないのだから洞察することがそもそもできず、止めることはできない(とはいえ本書で永井が言うように、原因のない感情に何らかの原因を見繕うということができそうでもあり、そうするとこちらも消すことができそうではある――しかしそう考えてみると、原因を見繕うことと原因を発見することとのあいだには、実はさしたる違いは無いのかも?)。
――といったように、「第一図志向(半動物的状態)」においては、痛みやかゆみや温かさや冷たさといった感覚と、原因のない感情とは残ることになる。他方で「第五図志向(半神的状態)」は、それらについてさえ無化できる可能性がある。反省の軸が瞑想中にある場合――つまり「ある情動に対する反省意識(気づき)の生起」がその情動の外部にある場合、情動そのものを世界内の一事象として眺めることにより、そこから超出することができる。この「瞑想中の軸」が存在(独在性)の側に極限まで接近すると、私に残される場はただ単に「こうしてある」という現実のみに限定され、「このようにある」という内容(私秘性)の全てが対象化される。これにより、感情のみならず感覚でさえ、対象化することが可能となる。つまり、「第一図志向(半動物的状態)」においては超出する先がないと言われたその超出先が、「第五図志向(半神的状態)」においては存在する(ように思われる)。
・瞑想が目指しうる二つの極致
ここで重要なのは「独在性/私秘性」の対比となる。〈私〉、〈今〉、〈現実〉等と山括弧付きで表現したくなるところの「この、これ」というのは、ともあれ「こうある」以上、「こうでもある」というあり方をしている。現にこうあるのではあるが、こうあると言えるには、このようにしてキーボードを打ったり、ディスプレイを眺めたり、ものを考えたりといった、何らかの内容が伴ってこそである。人類の誰しもがその時々で表明できる何らかの内容を伴っているのに対して、唯一この〈私〉だけはそうした人間のなかでまさにそこから世界が開かれている原点である。この「原点である」という性質が独在性であり、そこから認識される内容自体は私秘性である。私秘性は各々の人間が持ち合わせているが、独在性は「こうしてある」以外のあり方を現にしていない(とはいえ私秘性という概念が概念として理解されるには、「AさんにとってはAさんという人物から世界が開かれている」という独在性をも対象化して読み込まなければならない。つまりわれわれは独在性を対象化することで言葉を話すことができている)。
「第五図志向(半神的状態)」というのはつまり、内容(私秘性)のすべてを対象化することで、自己自身が独在性の視座に立つことを意味する。世の中にはたくさんの人がいて、それら人があれやこれややっていて、その個々人はそれぞれその身体の内側で生きているのかもしれないが、ともあれそのような世界のすべてを現にこうして「あらしめて」いるのはほかならない〈私〉なのだ、ということに気づいたとき、私は私の身に生じるあらゆる内容を(だから森羅万象を)対象化して捉えることになる。
しかし、そんなことが果たして可能だろうか。「あらゆる内容を対象化して捉えるということそのものもまた内容だ」、とは言えないだろうか。それをさらに対象化したとしても、「「あらゆる内容を対象化して捉えるということそのものも内容だということを対象化して捉える」ということそのものもまた内容だ」、と言え、これは累進するのではないか。つまり、何であれ内容でないことはありえないのだから、何であれ世界内に位置を持たざるをえないのであり、純粋な意味における「独在性の視座」などというものは存立しえないのではないか*。そうなると、「第五図志向(半神的状態)」というのは、究極的には無を志向するような、実現不可能な試みなのではないか。
逆に言うと独在性そのものを除いた世界内のあらゆる物事は問題なく対象化できると言うことができる。だから、どれほどの痛みであろうと、それこそ手足がちぎれて内臓が飛び出るくらいの傷を負おうと、〈私〉はそれを対象化し、その痛みを痛まないことが(その痛みが痛むということ自体を演劇のワンシーンのように捉えることが)理論上可能ではある。しかし「第五図志向(半神的状態)」の極限には必ず、独在性そのものの対象化はどこまでも不可能であるというこの累進構造が現れる。この累進構造を超出することだけはできないだろう。だから、世のあらゆる内容的なものを対象化し切った後に現れるこの累進構造に気づくということが、最終的な「悟り」のゴールと言えるのかもしれない。
「第一図志向(半動物的状態)」と「第五図志向(半神的状態)」のどちらがいいとか、どちらを目指すべきだとかそういう話ではないが、瞑想が志向するところの極致(ひいては人が特段の考慮もなしに志向する生き方の極致)には二種類あり、それは以上のようなものだ、というこれは話だ。そしてこの二種類の極致、とりわけ後者の極致についての正確な認識と、加えてこの二種類の正確な区別というのは、瞑想に関わる人々の間においてもそこまで明確にされていないのではないか*。
明確にされない理由はまさに独在性の言明し難さとその累進構造にあるだろう。そして明確にされなくても問題ない理由は、理論がなくても実践を通じてこの累進構造へ至りつくことが可能だから、だろう。しかし少なくとも言えるのは、瞑想が志向するこの二種類の極致を明確に区別しないと、そもそも何をやっているのかわからないし、意図しないうちに自分が動物に(あるいは神に)なってしまった、ということにもなりかねない。
加えて言うと、内山図で言うところの第四図的な放逸というのは、この二種類の極致のあいだにあって明確に方向を定められず、どっちつかずのまま無明、放逸の状態にある人々のことを言うのではないか。つまり第四図の状態というのは、本当は半動物か半神のどちらかになりたがっているのだが、自分自身の志向の極致を洞察できないまま第四図空間に踊らされているだけ、なのではないか。だから少なくとも第五図方向か第一図方向のどちらかへ方向付けてやるというのが、すなわち衆生を導くということなのではないか(一般に宗教は第四図的「グループ惚け」へと人々を誘うことを目的としている感があるが)。
そう考えると、世の宗教が人々を「第一図志向(半動物的状態)」と「第五図志向(半神的状態)」のどちらへ導くことを旨としているかが(少なくとも宗教に疎い自分が思い当たる限りでは)明確になっていないというのは、実は驚くべきことではないか。
・補遺(文学について)
文学と悩みとは切り離せない関係がある。他方で、文学と苦しみの間にはそれほどの関係はないように思われる。それは、前者が錯綜した観念に満ちており、そこに文学的な風味をつけることがいくらでも可能であるのに対し、後者は単純で裏が無く、風味付けできないことに依る、のではないか。悩みは何かしら深いところがあるが、苦しみは端的に負の感覚実質そのものだから深みがない(例えば、嫉妬は容易に文学になるが、痛みのみを文学にするのは難しい)。しかし、その種の深みをありがたがる風潮をよく観ると、単に書き手と読み手がその種の深みをよく観ることができずにいるから(こそ、よくわからないが深いものとして有難がる)、というだけの話に思われる。
人間的な悩みというのは自己を客観的世界に措定した結果として相対化された自己と「他者および他時点の自己」とを対比した結果であり、言ってしまえば言語が見せる夢にすぎない――ということを精確に観ることができさえすれば、恐らく世にあるほとんどの文学は超克され、「くだらない作品」のレッテルを貼られることになるだろう。内山図を援用すると、ほとんどの文学作品は第四図的である、と表現できる(まあそれで言うと社会が第四図そのものなわけで、物事の社会的受容が総じて第四図的になされるというのはあたりまえのことではあるのだが)。
それでもなお文学が読まれうるとしたら、それはその書き手がものを書くのにあたってどうしてもそうなってしまうという個人の局限が垣間見える際に感じられる「個人的触感」か、あるいは世界に対し自分自身言明できずにいた何らかの「気づき」、ということになるだろうか。自分は前者を例えばラファティに感じ、後者を例えばカフカに感じる。とはいえ後者のような気づきは哲学の仕事と言え、文学が為すべき固有の仕事というのがあるとすれば前者、ということになる。文学は第四図を超え、第五図の位階で展開され(たものとして読ま)なければ、およそ価値がない。第四図に留まる限りゴシップ的な価値を超えないし、そんなものは身の周りからいくらでも自給できるので読み物としての価値がそもそもない。
とはいえおよそ言語である限り、それを読むという行為は必ず第五図的でもありうるので、言語でありさえすればあらゆる読み物には価値がある、とは言えるのかもしれないが……。