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読書日記 2024/12/24

 先週から読んでいた三冊。読んだ順。
宇野常寛『庭の話』(講談社)
小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社)
打越正行『ヤンキーと地元』(ちくま文庫)

 宇野常寛氏の『庭の話』は文芸誌「群像」にて、2022年7月号から2024年1月号まで連載していたものの単行本化。打越先生の『ヤンキーと地元』は2019年に単行本として出たものに補論と岸正彦先生の解説がついた増補版。どちらもそれぞれ待ちに待っていた一冊。ゆとりは全くない年末だけれども自分への誕生日プレゼントに購入。
 そして、この二冊の間に『チョンキンマンションのボスは知っている』が入っているのは、『庭の話』で引用されているので復習も兼ねながら、著者の小川さやか氏の参与観察の手法と、香港で生活・活動するタンザニアの人びとが繰り広げるインフォーマル経済とそれを支える地べたからの互助などは、『ヤンキーと地元』にも繋がる部分が大いにあるので間に挟み再読しました。というのと、打越先生の急な訃報に、すぐ手に取れなかったというのもあります。

『庭の話』

 こちらについては、著者ご自身による自著解説をテキストでも動画や音声でも発信しているので先にそちらをチェックしてもいいし、読後にチェックするのも面白いかと思います(答え合わせを推奨する意ではなく、自分の読みと書き手との「ちがい」の発見が面白かったりするので)。

 個人的にはどうでもいいことだけど、知人・友人との会話やSNSなどの投稿で宇野氏について話すと驚かれたり、引かれたり、中にはあからさまな嫌悪感を示す人もいるのですが、本作はそう思う人ほど読んでほしいものでもあります。好きになってほしいわけではなく、好き嫌いで選んでいると得られないことが書かれているので勿体ないという気持ちです。(もっとどうでもいいけど、あからさまな嫌悪感を示すのも相当失礼だし、腹立たしいのであえて「私の好きな宇野常寛さんが~」と前置きして話したりします。)
 さて、本作ですが、主題は以下引用にあるとおり、プラットフォーム資本主義(プラットフォーム企業)の支配下から逃れ得るオルタナティブな方策としての「庭」を再構築することにあります。

事物そのものへの、問題そのものへのコミュニケーションを取り戻すために、いま、私たちは「庭」を再構築しなければいけないのだ。プラットフォームを「庭」に変えていくことが必要なのだ。

宇野常寛著『庭の話』
#1 プラットフォームから「庭」へ §10 〃 60P

 まず、宇野氏はイギリスのジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートの言葉を借りて、「Anywhere」(どこでもやって行ける人、グローバルエリート)と「Somewhere」(ここでしかやって行けない人、庶民)と人びとの階層が二極化していることを上げ、常時接続社会を生きる我々が属する大まかな階層とその参加するゲームの違いを示し、そこから「庭(リアルな場としての)」の実例と、そこから導き出される「庭(比喩としての)」を交差させ、庭の概念、場の条件、人間の条件、と順に議論を進めていきます。
 わざわざ書いていないけど、最初に前提として共有される「Anywhere」と「Somewhere」という階層の概念とそれぞれが参加しているゲームは、右左や保守・リベラルなどの主義・思想とは全く関係がないことが重要だと思います。
 この『庭の話』は連載とともに、宇野氏が主宰している『庭プロジェクト』とも同時進行していて、本書で引用される事例や論考はこのプロジェクトや宇野氏が編集長を務める雑誌「モノノメ」でも展開されているので、そこを行ったり来たりしながら読むと、テーマごとに書かれた各章がより浮かび上がってくると思います。と、書いていると、ずいぶんな人数の多種多様な人を巻き込んで、場所も時間もとって相当な労力をかけていて、本当にどうかしてると思うのですが、上記に引用した主題をただ唱えるだけではなく、実践していくなら、社会を変えていくには、このくらいやらないとダメなんだなと思いました。それも引っ張っていく誰かだけでなく個々人が大人の責任として。

 で、「庭の再構築」とあるとおり、再構築(rebuild)するためには、まず解体が必要です。やみくもに壊せばいいわけではないし(建築物の解体工事でも既存建築物や柱状図の図面をちゃんと見れる人が指揮をとらないとろくなことにはなりません)、誰かの意見やあるモノやコトに乗れば出来るというものでもありません。それではただの「消費」になってしまいます。なので、その解体には解体工事の際に図面をみっちり見るように、絶望的な現状を矮小化も冷笑も過度な楽観もせずしっかり把握する必要があり、それは#1でロシアのウクライナ侵攻から始まり、アフタートランプの世界(現在は返り咲いてしまったのもむべなるかな)、動員の革命のその後などを引いてみっちり現状を示し、

 とくに民主主義という制度は、この相互評価のゲームが世論に対して強い影響力をもつようになったことで迷走をはじめている。2016年のブレグジットしかり、ドナルド・トランプの台頭しかり—。したがって、このプラットフォーム上の相互評価のゲームで優位に立つことが、西側の民主主義国に暮らす人びとの心を掴み、その世論を操作することが、これらの国家たちからの足並みをそろえた支援を獲得するためにもっとも有効であることをゼレンスキーは理解している。だからこそ彼はインターネットを通じて、戦場から国境を越えて「直接」世界中の市民に問いかけつづけているのだ。そしてその言葉がより新しい、次の戦争の出現によって人々に届かなくなると同時に彼の戦略もまた破綻しつつあるのだ。

宇野常寛著『庭の話』
#1 プラットフォームから「庭」へ §1 キーウの幽霊 20P

 Anywhereな人びとは、あるいはリベラルな立場に立つ人びとは述べる。トランプの述べる排外主義は、間違っている、と。「壁をつくれ」というアジテーションは政策的に無内容で、愚かだと。しかし彼らは何もわかっていない。トランプは間違っていることや、噓を述べている「からこそ」Somewhereな人々を惹きつけているのだ。Somewhereな人びとが求めているのは、倫理的に正しいことでもなければ政策的に賢いことでもない。ただ、自分が世界に素手で触れているという実感なのだ。

上記 〃
§2 アフター・トランプの世界 26P

 また後半#13で矮小化も冷笑もせずに各自が自立を達成させるために、吉本隆明とその継承者である糸氏重里を引きながらかつての失敗した革命のその後を生きるために用いられた吉本の幻想と、その幻想からの脱却を説きます。

 (略)にもかかわらず、吉本のこの言説が受け入れられたのは、当時において革命より家庭を選ぶことが、対幻想に依拠することで共同幻想から自立することが必要なのだと説く言説が自己正当化の論理として必要とされていたからにほかならない。この事実は吉本の処方箋が当初から「自立」の要件を満たさないものであったことを意味するはずだ。
 (略)しかし、この情報社会下だからこそ「消費」を用いた自立に挑戦しているのが吉本思想の実践者としての糸井重里だ。

宇野常寛著『庭の話』
#13 「消費」から「制作」へ §1 対幻想から自己幻想へ 305P~308P

 (略)このとき糸井はなにが「正しいか」ではなく、それを「どう語るか」を基準にする。語る対象はある意味なんでもよく、どのような事物でも気持ちよく語る距離感と進入角度があり、それを見つけることが最も重視される。つまり「内容」ではなく「語り口」を優先する。
 (略)しかし「どう語るか」を優先すると、人間に負の感情を与えるコミュニケーションは選ばれなくなる。とくに「正しさ」を根拠になにかを否定することは人間の思考を強い力で縛るため選ばれなくなる。だが世界には確実に悪や不公平に対して声を上げる必要が生まれる場合がある。この「声」を「語り口」の優先は事前に摘み取ってしまう。
 (略)しかし「正しさ」を語ることそのものを避けてしまったとき、人間は世界に対して無抵抗になる。理不尽や不公平に対して、言葉を失う。

宇野常寛著『庭の話』
#13 「消費」から「制作」へ §2 消費社会と「語り口の問題」 310P~312P

 そして、このあとも意外なものを引きながら議論は進んでいくのですが、本書を貫いているのは、各自が「個」や個の主体性を「庭」を通して取り戻すことでもあるのだと思いました。なので、本書は実例を挙げつつ提案をしていきますが、正解やルールや処方箋を示すものではありません。私(たち)が個別バラバラなようにそれぞれがそれぞれの庭を作庭(実践)して、そこを通して出会い、出会い直しても行くものなのだと思います。

 そして本書の、ちょうど真ん中あたりに来る「國分功一郎」論がそれまでとそれからが分岐する重要なポイントなのですが、まだ読み込みが足りないのでもう2~3往復してから追記します。

 話は飛んで、本書には引かれていないけど、私が今まで散々引いてきた書籍(や開催してきたスナック社会科のテーマ)から呼応するものや対比して考えたいこともたくさんあり、過去に参加された方はそんな読み方も面白いと思います。
たとえば、"#8 「家」から「庭」へ"の章で書かれている「共同体」や「協同組合」的なハートフルなコミュニティについては、プラ解の"Chapter 09
プラットフォーム協同組合―市民主体のデジタル・プラットフォーム経済に向けて(中野 理)" と読み比べても面白いと思う、協組の希望と可能性について書かれているので、宇野氏が本書で指摘する共同体の限界や包摂することで発生する包摂される者以外への排除について、両面から考えられるのではないかと思います。
 ここで包摂される者以外への排除の例えとして挙げられる「帰ってきたウルトラマン」第33話「怪獣使いの少年」(1971年放送)は、幼少時再放送で観ていて、人見知りが激しく家の都合で引っ越しも多かった時で、どこに行っても所在も友達もなかった当時の私はメイツ星人と少年に自分を重ねて号泣した思い出とワンセットなので、個人的に力の入ってしまう章でもあります※1。
 宇野氏のファンや読者の方には言わずもがなですが、こういった論考(共同体について)で宇野氏が「包摂される者」だけに向けた口当たりのいいものでなく「排除される者」にも視点を置いて、引いてくるのがこれ、というところが宇野氏好きすぎるポイントでもあります。
 そして、この「包摂される者以外への排除」への視点は、「庭」が「支配する」ことはできない場所でなくてはいけない、という"#3 「庭」の条件"や"#9 孤独について"ともつながるものだと思います。

 したがって、私たちが求める「庭」はプラットフォームのように二層に分かれてはいけない。そして、そもそもゲームのように「攻略」できるものであってもいけない。それは「かかわる」ことができるものであるべきだが、攻略し、支配できるものであってはいけないのだ。攻略し、支配できると感じられることが、それができないことへの無力感と絶望を呼ぶのだから。(略)確かに自分が世界の一部であると、実感できる場所である一方で、その結果をコントロールすることはできないことが必要なのだ。敗者も、勝者もいない場所であるべきなのだ。

宇野常寛著『庭の話』
#3 「庭」の条件 §3 関与できるが支配できない 105P

 また、これは読んで思ったことですが、AnywhereとSomewhereについては、大まかにはそれで二層に分かれるのかもしれませんが、「ここでしかやっていけない権力者」と「どこでもやっていける持たざる者」というものも存在すると思うので、グラデーションはあると思います。これは読者それぞれの自分の立ち位置でも変わるものだと思うので、そこに各自の補助線を引いていくことでより豊かに読めるような気がします。
 そして「どこでも」と「ここでしか」だけでなく、Everywhere(いたるところ)とNowhere(どこにもない)も残念ながら世界には存在すると思いました。今の国家や国境を超え人々を大量に殺しうる政治や軍事にも加担するプラットフォーム企業のプレイヤーと、ガザで虐殺され続けている人たちの図式がそうであるのだと思うし、AnywhereとSomewhereの二層化が進めばEverywhereとNowhereの激しい二極化された世界になってしまうような気がします。

 なので、思想信条、階級、出自などにかかわらず共存する(ただばらばらにいることを可能にする)ためにも本書や筆者を陣営分けして、手に取らなかったり、その陣営分けしたイメージで評したりするのはとても勿体ないと思うし、もう左右で対抗している場合じゃないとも思っています。大半の下層の共食いを喜ぶのは誰か。
 また私のもともとの問題意識とリンクするところがあって鼻息が荒い部分もあるのですが、そんなゴリゴリに階級闘争について書かれた本ではないので、安心して読んでほしいと思います。耳に痛いことは少なからずあるとおもいますが、人間はもっとゆたかになれる、「ではない」方へ行けるはずだという、宇野氏の祈りのようなものが込められていると思います。

※1
 ちなみにこの第33話はのちに知りましたが、沖縄県那覇市出身の上原正三が脚本を担当し、内容は関東大震災時の朝鮮人虐殺が下敷きになったことやこの回の主人公である少年はアイヌであることものちに上原氏が語っています。またメイツ星人と少年が起居するバラック小屋は多摩川べりにあり、メイツ星人が殺されたことで封印が解けて暴れる怪獣が破壊する街は川崎市街地です。上原正三たちウルトラマン制作チームのテーマ設定に合わせた背景やディティールのこだわり、まだ近い過去だった加害と被害の歴史への目配りやそれを子供向けヒーローものの物語に落とし込んだ平和への思いは本当に凄いと思います。

 (つづく)

※この後も、小川さやか氏と打越正行氏の書籍のそれぞれの感想や、つながるところなどを書いていく予定だったのですが、力尽きたので追って追記します。
※最終更新 2024/12/25 誤字を直しました。


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サトマキ
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