110万円の給湯器を買いそうになりました
私の朝は遅い。
20代後半に差し掛かってもなおニート同然で祖父母の一軒家にへばりついている私にとって、11時50分までに起きていることが、自分を真っ当な人間に留めておくための小さなルールである。
今日も私は11時50分に起きて、半分死んだような顔で一階の居間へのそのそと降りていく。
祖母は私のぶんむくれた寝起きの顔を見て「見てお父さん。この子小さい頃から変わらない顔してるわ。」と祖父に話しかける。私はこのやりとりを365日毎日聞かされている。反応する気力もなく虚空を見つめる。
その日の朝はテーブルの上に見慣れない書類が置いてあった。そういえば風呂の給湯器がどうとか言ってたっけ。買い換えるらしい。
「110万もかかるんだから。辛抱しないと。」
はっきりしない頭で私はおぼろげに思った。
たかが給湯器買い換えるだけで110万もかかるのか。大変だな。そんなんじゃ私が食い潰せる貯金が減っちまうじゃないか。ステーキ食いたいなぁ。
110万…?うっそぉ……
「ちょっとまて」
起きてからはじめて声を発したのでほとんど空気が漏れただけだった。
ちょっとまてよ。110万だと?給湯器ってそんなに高いのか?どこの家も給湯器にそんなに払ってるのか?隣の山下さんもその隣の白石さんも、向かいに住んでる母子家庭の田川さんも?みんな給湯器が壊れるたびに110万も払ってるのか?ここはビバリーヒルズじゃないんだ。そんなわけない。冗談じゃないぞ。絶対に騙されてる。
契約書の明細をしげしげと見つめる。
本体 110万
値引き 50万
ハァ?
スマートリモコン5万
ウヘェ?
取り付け・撤去費用 38万
オホォ…
その他 7万
計110万
怪しい。怪しすぎる。
なんだこの恩着せがましい50万の値引きは?スマートリモコン高すぎるだろ。なんで取り付けるだけで38万もかかる?
老人だけの家だと思って足元見やがって。この家にはなあ、知恵だけつけてクソの役にも立たない血に飢えた高学歴フリーターがいるんだよ。舐められたもんだぜ…
こんなことをブツブツ言いながら、私は契約書を握りしめてパジャマのまま野を駆け上がり、山口の家に押しかけた。
前にも話したが、山口は私の友達だ。いつも私に美味しいものをくれるので敵ではない。
そして山口はアマチュアのクレーマーだ。
めっぽう気の弱い私は業者にいちゃもんをつけてもらうべく山口に応援を求めることにした。
「これはやべえ」
「やべえよな」
「うちの給湯器だって40万くらいだぞ。なんで110万もかかるんだよ。」
「大学の金持ちの先輩に聞いたらその人の家も30万くらいだって。なんで世田谷の豪邸の給湯器が30万でうちのボロ屋敷の給湯器が110万なんだよ。むつみ荘にベンツが駐まってるくらい違和感あるよ。」
契約書に挟んであった名刺の番号に電話をかけ、スピーカーモードにする。
「もしもし。あっ、お世話になっております伊藤さん。どうしましたか?」
てっきり悪徳業者らしいドスの効いた声が聞こえてくると思い込み、顎をしゃくらせて身構えていた私たちは予想外の優しく穏やかな声に拍子抜けしてしまった。
しかしそこに気を取り直したアマチュア山口が切り込む。
「おたくと契約した給湯器?ちょっと高いな〜と思いまして〜」
「あっ、そうでしたか。でもこれちゃんと正規の値段なんですよ。こちらのカタログ見ていただければ分かると思うんですけど…」
言われた通りネットでカタログを検索してみると、たしかに契約書に記載されたものと同じ給湯器が110万と書いてある。
これを見た私は早くも諦めていた。
なんだ詐欺じゃないじゃん。世間知らずでごめんなさい。なんてったって私、まだおじいちゃんにパンツ洗って畳んでもらってるんだもの。なにも知らなくって。うちの給湯器をよろしくお願いします…
しかしここでもアマチュア山口が切り込む。
「でもぉ、これって最新モデルのいちばん高いやつですよねぇ?なんでわざわざ最新モデルにしなきゃいけないんですかぁ?」
「これはですねぇ。伊藤さんのお宅の給湯器の設置場所がですね、すごく狭くて、このモデルしか設置できないんですよ。」
「これと同じモデル、楽○で見たら40万くらいなんですけどぉ。」
「それはまぁ、安いところなんていくらでもありますよぉ。それに関しては何も言えませんねぇ。」
「それと取り付け費用38万って高すぎますよねぇ?」
「うちは一律38万でやってるので、それも安くしたりはできないんですよ…」
早い。早すぎて見えねぇ。助太刀したところで足手まといでしかないと分かるから動けねぇ…
私は黙って戦いの行く末を見守ることにした。
戦いを終えた山口の結論は
「詐欺ではないけど全然お得ではない。」
というものだった。
ネットに疎い老人には知るよしもないことだが、他を探せば安く済ませてくれる業者はたくさんある。経費で落とせるわけでもないのに、ガチガチのプロパー価格で買う必要はない。死ぬな杏寿郎。
私は山口を連れて自宅に帰り、祖父母に同様の説明をしてもらった。
他の業者に依頼したほうがいいこと。
使っている給湯器が今すぐ壊れるわけではないということ。
クーリングオフの期限が今日までであるということ。
これを契約させた担当者も会社に従わざるを得ない悲しき鬼であるということ。
煉獄さんは負けてないということ。
こうして我が家の給湯器交換計画は白紙に戻ることとなった。
代わりの業者はまだ見つかっていない。
給湯器に詳しい人、いたら連絡ください。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?