双極性障害を生きる感性を思い出す
「理屈」に頼った病気のコントロール
最近、自分は「理屈っぽく」なったなぁと感じる。
理系の大学に通ったというのもあるけれど、
どうも双極性障害との付き合いが長くなったからのようだ。
躁鬱の波をコントロールするために、
できるだけ堅実な手段を選ぶようになった。
「理屈」はその一つで、
「こういう科学的根拠があるからこうしたほうがいい」と
ロジックを混ぜて躁鬱への対処法を作っていった。
まず、双極性障害の最大のリスク
(自死・人間関係などの社会的資本の喪失・金銭的破滅)
については、
服薬を欠かさない、体調不良になったらとにかく休むなどの、
鉄壁の対策をしておいた。
そして、より一般的な困りごとについては、
こうなったらこうする(If-Then)という、
多少場当たり的な対処と理屈を考えておいた。
例えば、反芻思考は他に気をそらすと止まると科学的に分かっているので、
繰り返し嫌なことを思い出したら、
Tiktokを観てで頭を空っぽにすることがある。
その理屈の組み合わさりが、現在の自分の理屈っぽさだ。
「遊び」のある不完全なロジック対処の利点
これは無理に我慢をしたり、
自分の気持ちを抑圧しているわけではないから、
火山のように溜まったエネルギーが噴き出すことはない。
双極性障害と付き合うにはとっても堅実で安心感がある。
機械が人間を支配するストーリーの映画『MATRIX』では、
支配者側の機械達がエネルギー源である人間を、
仮想空間で生活させようとするとき、
人間にとってのユートピアは作らなかった。
完璧に幸せだと、人間はなぜか精神活動を破綻させてしまう。
ある程度不完全な仮想空間で生活させれば、
人間の矛盾した思考や行動は葛藤を引き起こさず、平穏に生存する。
機械にとって、この不完全さは人間をコントロールしやすかった。
自分が組んだ双極性障害の対処法ロジックも、そんなイメージだ。
ユートピア的な完全な理想を目指さず、不完全を維持する。
けれど、それは機械のようにロジックで構築されていて、
融通はあまり効かない。
不完全な「遊び」の部分があるので、堅実な世界が維持される。
強烈な幸福は得られない。でも、コントロールはしやすい。
衝撃を受けた躁鬱本
最近、とても衝撃を受けた双極性障害の本があった。
数ある坂口恭平さんの著書の一つ『躁鬱大学』だ。
この本は「感性」の本だ。
医療的、科学的見地からのエビデンス、数値、再現性などの角ばったブロックを使っていない。
そのおかげで、理屈で双極性障害をコントロールしようとしていた自分には新鮮な風が吹いた。
私がこの本から受けた衝撃は二つある。
思った以上に躁鬱人は共通している
まず一つ目は、この記述にある。
あなたが嫌だと思っているあなたの状態は、あなたの性格ではない。すべての鬱状態の躁鬱人に共通の特徴である
この本は「躁鬱語」で書かれている。
ジブリ映画作品『ラピュタ』で、
ムスカというキャラクターが、
石碑の古文書をスラスラ読んで感動していたように、
双極性障害の人にはこの本がスラスラ読める。
それは著者と同じ躁鬱の特徴を思った以上に共有しているからだ。
「病気あるある」で共感するどころか、
病気やそれを抱えて生きる自分自身が、
言語化されたように感じる部分がきっとある。
この記述のおかげで、自分に少し謙遜が芽生えた。
躁で自信満々になるのに謙遜なんて…と思うかもしれない。
うつ状態の自己卑下とはどう違うのか?
今まで発揮してきた自分の能力というものがあったなら、
少なくとも半分は躁鬱から発生しているらしいということが
分かってきた。
躁の時のクリエイティビティ・アイデア・行動力・頭の回転、
うつの時の深い思考・分析・静寂
波の大小や、波のない平常時も含めて、
自分は生きている中で、知識や情報という材料を集め、
双極性障害の脳にインプットしているだけなのだ。
そうすると、その「躁鬱脳のるつぼ」からは、
なぜかいろいろ物がでてくる。
これは自分の能力や才能ではなく、多くの躁鬱人が持つ特性だ。
唯一無二で特別なものではまったくない。
そう思ったら、「自分は大したことないな」と軽く思えた。
今まで、「自分は大したものである」と自他に証明しようとして、
いろいろ無理をしてきたのだけど、
そうしなくてよくなったと感じ、非常に楽になった。
病気で破綻しなかった状況を思い出す
本を読んでの二つ目の衝撃は以下の記述だ。
中高生の時も好調・不調があったのに、なぜそのときは破綻しなかったのか
これによって、昔を強烈に想起させられた。
著者は昔の記憶をたどることを「作り話をする」と表現している。
私も昔の「作り話」をしようと思う。
自分がまだ理屈っぽくなかった昔。
病識のなかった頃、あるいは病識があっても客観視ができなかった頃に、
かなりうまくいっていた時期があった。
本格的に高校を休む前は、割と知り合いを広く作り、その時のニュースや最新ゲームを話のネタにすることが多かった。
今思えば、感情的な交流をするトモダチというよりも、
共通の話題があればその関係性だけで十分だったのかもしれない。
躁状態で人間関係を大きく棄損し、何年も悩むことになったのだけれど、
さっきのように考えると、
人間関係の再構築は思ったよりラクなのだと今気づいた。
いろんな人と付き合えば、薬は要らなくなるか減らせます
ひとまず深い関係ではなく、
ひとまず日常で"Hello"と言え、今日の天気やニュースを話せる人を、
そこかしこに作っておくだけでいいのだ。
(理解者がいれば、それはなおのこと良い)
薬を飲みながらアメリカへ1年留学することもあった。
専門分野で成績を残そうとするプレッシャーは大きかった。
基本的には成果重視になるとかなり燃えた。
また、アメリカ人がそもそもの感情表現が大きいため、
自分の躁鬱の感情表現でも大げさにならずに受け入れられたこともあった。
以上のように、
「好調・不調があったのに、なぜそのときは破綻しなかったのか」という
問いの理由を分析すればいろいろ出てくるだろうけれど、
総じて「躁鬱人として自然体だったから」だと思う。
うつになると若干メンヘラで、躁になると社交的になる。
一貫した深い趣味はないが、能力を発揮した実感を得て、
「頭が良い」と少し認められてもらえれば、上機嫌になれた。
平穏と充実は両立します
「理屈」で整え、「感性」でのびのびする
「躁でもないのに、なぜか調子のいい日が続いている。
これをどうとらえたらよいのだろうか」。
最近の自分が直面している問題だ。
今までは、調子が良いと思ったら、いつも鬱がやってきた。
だいたい1か月で1サイクル。2週間ごとのプラスマイナスの波。
また季節の変化で、体調不良がやってくる。そこで気分の波が大きくなる。
そのサイクルがだんだん当てはまらなくなってきた。
薬が少し減り、減った分の薬の脳へのギブスが外れ、
生活に明らかに鮮やかな色が乗ってきている。
本によると、こう書かれている。
躁鬱人には科学的証拠なんかどうでもいいですから。それよりも感覚的にあっているかどうかだけなんです。医者が言うとおりにちゃんと薬を飲まないと、なんて気持ちでやってたら、すぐに窮屈になりますから、かならずうつになります。心地よければすべてよし、なのです。だから自分に都合のよい言葉をひたすら集めていけばいいのです。堅苦しい医学書なんか読むと、読んでいる行為だけで、その内容はともかく、体調が悪くなります。背筋をしゃんとして、躁鬱病を理解しないといけない、みたいな堅苦しいことを始めると、体調は悪くなります。真面目になればなるほど悪化します。適当にすればするほど、感覚的に動けば動くほど、ラクになります。
つまり、「理屈」よりも「感性」の出番なのだ。
「感性」で書かれた『躁鬱大学』という本には、
今まで理屈っぽい対処をしてきた自分が次にやるヒントを
書かれている。
おわりに
最後に誤解を招かないためにこの点は言っておきたい。
「躁鬱(特に躁)の波を乗りこなすことで、
自分は完璧な人生が送れる」ことではない。
本の著者もそのような主張をしていない。
暴走した双極性障害は、人生の破滅リスクが非常に高い。
うねった細い道を100kmを超えて突っ走る必要はない。
時には薬を飲んで治療し、
手綱の捌きを「躁鬱のじゃじゃ馬」にを少しは伝えられるようになって、
この本を手に取って自分という躁鬱人について考えると、
とても手触りの良い生活が得られると思う。
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