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楽将軍、あんたは「リアル・メアリー・スー」だよ ―宮城谷昌光『楽毅』―

 創作用語に「メアリー・スー」という造語がある。これは理想化されたオリジナルキャラクターを揶揄する語だが、宮城谷昌光氏の小説の主人公には「メアリー・スー」的なえこひいき描写をされている人物がいる。例えば、『青雲はるかに』の范雎なんぞは、史実では政敵(?)白起を陥れて自害に追い込んだ人物だが、宮城谷マジックによって実に「素晴らしい」キャラクターに作り上げられている。美少女フィギュア関係の用語に「魔改造」という言葉があるが、宮城谷氏の小説における范雎は「聖改造」を受けている。
 なぜ私は宮城谷作品に対して皮肉で悪意タップリの見方をして、批判をするのか? それはズバリ、塚本靑史氏への判官びいきに基づくゆえである。まあ、塚本さん本人にしては「同情するなら(本を)買ってくれ!」と言いたくなるだろうが、世間での塚本氏の過小評価は実に気の毒である。
 それはさておき、私は久しぶりに宮城谷昌光氏の『楽毅』(新潮社)全4巻を再読した。今世紀になってからの文庫版ではなく、前世紀に発行されたハードカバー本だ。そう、前世紀。この「前世紀」こそがこの作品の欠陥の要因かもしれないと、私は思う。要するに、20世紀中に無理やり終わらせたのがまずい。それがこの作品のアンバランスさの要因だろう。
 まずは、私が読書メーターで投稿した各巻の感想を転載する。

①再読。とにかく楽毅がかっこいい。この1巻を読む限りでは、特にこれと言ってボロはないが、これから批判的な感想になっていくんだな。とりあえず、総括的評価は最終巻の感想やブログで書くつもりだ。
②棚ぼた式に「都合のいい女」を嫁に出来た楽毅様。まあ、激しいラブロマンスなんぞ似合わないキャラクターだし、こういう形で「楽毅の息子の母親」を設定せざるを得ないんだろうね。楽毅本人は相変わらずかっこいいけど、当人を褒めそやす連中は何だか「オタサーの姫」の取り巻きみたいな気持ち悪さがある。まあ、宮城谷さんの長編小説には珍しくない傾向かもしれないが。
③全4巻のうち、3巻までを読み終えたが、何だかバランスがおかしくないか? 今までが無駄に長過ぎるか、後が短過ぎるかのいずれかのようだ。立派な作りだけど、無駄な空間が多い建物みたいだ。とりあえず、「マトモな」人物で感情移入出来るのは趙の恵文王だけで、あとの連中はどれだけ「君子的な」発言をしても白々しい。やはり、私は宮城谷さんよりも塚本靑史さんの作風の方が好きだな。あちらの方が純粋にエンターテインメント小説だし。私は歴史小説を「人生の教科書」として読むのは邪道だと思うね。
④全4巻のうち3巻までが前半で、残りの4巻目だけが後半というバランスの悪い構成になっている(しかも、この巻だけが章数やページ数が余計に多く詰め込まれている。やはり、構成がまずい)。せっかく1巻目で伏線を張ってもらえた田単は噛ませ犬「未満」で、我らが楽毅様は「リアル・メアリー・スー」。私はそんな楽毅様を憎む燕の太子(後の恵王)の悪意に対してはむしろ同情してしまうが、それは宮城谷氏の噛ませ犬扱いされている塚本靑史氏への判官びいきの反映でもある。塚本さん、あまりにも過小評価なのが気の毒。次は塚本さんの本を読むよ。

 最初のうちは「楽毅様萌えー」だったのが、だんだんと「萌え」が冷めていった。要するに、この作品が単なる「キャラ萌え小説」に過ぎなくなっているのに興醒めしたのだ。主人公以外の人物たちが単なる主人公のアクセサリーにしか見えないし、楽毅自身は前述の「メアリー・スー」と化している。私はそれが気持ち悪い。
 その代わり、私は楽毅を憎む燕の太子(恵王)に対して感情移入した。宮城谷氏はさんざんこの「小人物」をこき下ろしたが、果たして、史実の恵王には何か言い分はなかったのか? 本当に楽毅は「無垢」「無謬」だったのか? そもそも、楽毅の恵王宛の手紙は後世の評価を意識したもののように思える。まるで、自身の賢明さと相手の愚劣さを宣伝するプロパガンダではないのか?

 史実であれ、宮城谷ヴァージョンであれ、恵王が楽毅を憎むのは、女性がカトリックの聖母崇拝に対してミソジニーの裏返しを見出すかのような深読みがあった可能性がない訳でもない。あるいは、桐野夏生氏の『グロテスク』の「わたし」の妹ユリコに対する憎しみにも通ずる何かがあったのかもしれない。
「美しき怪物」、それが楽毅という男の正体かもしれない。『ファイブスター物語』のファティマたちには「魔性」があるらしいが、多分、楽毅は「魔性の男」だ。だからこそ、恵王は彼を警戒していたのではないのか?

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