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ファザコン鍾会の密かな想い ―塚本靑史『姜維』―

 私は去年(2024年)の自分自身への誕生日&クリスマスプレゼントとして買った2冊の本のうち1冊を読了した。それが塚本靑史氏の『姜維』(河出書房新社)である。そこで私は思った。
 私はそれ以前に購入した宮城谷昌光氏の小説『諸葛亮』を読み、それから塚本氏の『姜維』を読んだのだが、宮城谷氏は以前よりも「消毒薬臭さ」が薄れ、塚本氏は以前よりもセンセーショナルな毒気が薄れた。つまり、二人揃って「中庸化」している。多分、今は亡き陳舜臣氏がお二方を導いているのだろう。この小説では、鍾会が意外とまともで魅力的な人物として描かれている。
 塚本靑史氏の小説では、ゲイもしくはバイセクシュアルの男性キャラクターが添え物として扱われる事が少なくない。それは『姜維』でも同じだが、塚本氏の父である歌人の塚本邦雄氏は、戦後間もない日本で初めて発足した会員制の男性同性愛サークル〈アドニス会〉の機関誌に別名義で作品をいくつか投稿していたらしい。おそらくは、その影響だろう。それに対して、宮城谷氏の小説では同性愛者がキーパーソンとして出てくる事態はめったにないだろう。何しろ、宮城谷氏の短編小説『指』の男性主人公は、終盤で「男は女を愛せばよいのに」とつぶやいているのだ。
 塚本靑史氏のいくつかの小説を読んでから、改めて宮城谷氏の小説を読むと、いかに「強制的異性愛主義ヘテロセクシズム」が強いかが分かる。そもそも、宮城谷氏が歴史小説を書く動機の一つとして、「ガラテア」すなわち「理想の女性像」を創造するという目的があるのではなかろうか? ならば、生身の人間の女性である私が、宮城谷ヒロインたちに対して嫌悪感を抱くのは当然である。

 それに対して、塚本氏の小説からは自らの「ガラテア」を創造したいという欲求は感じられない。塚本氏の作品群においては、「美女」には宮城谷作品群の美女たちほどの特権性はない。塚本ヒロインたちは宮城谷ヒロインたちとは違い、「人間」なのである。彼女たちは決して「女神」や「ガラテア」ではないのだ。

 塚本氏の姜維には魏と蜀双方に妻がいた。しかし、彼女たちは悪目立ちしない。そんな彼女たちよりも鍾会の方がよっぽど重要人物だが、この小説においては彼は同性愛者である可能性が匂わされている。しかし、彼の性的指向は多分、ファザコン的な心理を反映したものだろう。祖父どころか曽祖父ほどの年の差がある父鍾繇しょう ようとは死に別れた彼にとっては、姜維は父性の象徴だった可能性がある。おそらくは、史実の彼自身もそうだった可能性があるのだ。
 一般的には卑劣漢として想像されている鍾会だが、塚本氏のこの小説における彼は、一転して魅力的な人物である。とは言え、さすがに史実通りの汚い手を使う人物ではあるが、塚本氏は鍾会に対して「偶像」的な魅力を与えた。以前の塚本氏の作風ならば、宮城谷氏の作品群のような「偶像崇拝」要素はなかったが、宮城谷氏も塚本氏も私が知らぬ間に作風を変化させていたのだ。少なくとも、宮城谷氏の諸葛亮には、同氏の楽毅のような「偶像」要素はない。
 もしかすると、この小説における鍾会とは塚本靑史氏自身であり、彼の父鍾繇は塚本邦雄氏で、姜維は宮城谷昌光氏かもしれない。私はそう邪推したが、ならばそれは、楽毅と韓信の関係性をギリシャ神話のアテナとアラクネになぞらえるようなものだろう。他には、マドンナとレディー・ガガ(もしくはディープインパクトとオルフェーヴル)の関係性の例もあるのね。

【Lady Gaga - Judas】

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