自称オタクの「普通の人」 ―本田透『電波男』―
ベストセラーはたいてい賛否両論ある。当然、当記事で取り上げる本田透氏の『電波男』(講談社文庫)も賛否両論ある。世間一般の評判だけではない。私個人の中でも賛否両論あるのだ。つまりは、ある程度は納得出来る面がありつつも反発もあるのだ。そもそもオタク趣味なんて、ある程度の経済力と教養レベルを前提としたものでしょ?
…とまあ、本田さんが仮想敵にしている酒井順子氏の『負け犬の遠吠え』の感想の冒頭をもじったが、もちろん酒井さんと本田さん双方に対する当てこすりである。要するに、私はお二人のご意見に対して全面的に賛同出来ない上に反感があるからだ。だって、二人とも教養レベルの高さを見せつけているのが嫌味だもん。まあ、それぞれ高学歴だからこそ許されるのだが。
酒井さんが自らの教養レベルの高さを「さり気なく裏地を見せる」ように見せているのに対して、本田さんはこれでもかと言わんばかりに自らの物知りぶりを見せつけている。「自分は世間一般の異性愛男性と比べて不当に異端視されている」という主張の割には、結構「フツーのオトコ」っぽい見栄っ張りがあるように思える。『嫌オタク流』にもあるように、オタク男性というのは決して「特殊」な人種ではない、全くの「一般人」と大してメンタリティが変わらないのだ。
だからこそなおさら、(この本を執筆している時点では)ある種の選民意識を持っている本田さんは執拗に、ある種の非オタク男性(言うまでもなく、こちらも「一般男性」である)を「DQN」という蔑称の下にバッシングするのだ。しかし、男性は女性に比べて根本的に同性に対して甘い。何しろ「女の敵は女」なのに対して、男は家の外に出ても七人の敵しかいないらしい。もちろん(!)本田さんの非難は、同性よりも異性すなわち女性に対して一層厳しい。しかも、これは世間一般の男性たちにありがちだが、自称オタクの「普通の男性」である本田さんは、いわゆる「ブス」を「女」として認識していない。まあ、基本的に異性愛の男女は自分の好みに合わない異性に対して「異性」としての存在価値を認めないから当然だね。
私が本田さんの主張に対して反感を抱くのは「オタク」という錦の御旗の下に女性蔑視をする姿勢だけが理由ではない。自分たちオタクを「多数派」「与党」に成り上がらせたいという変な「権勢欲」があるのが実に俗っぽくてガッカリしたからでもある。オタクであれ、他のサブカル愛好家であれ、「別に少数派でも構わないし、他人の評価なんてどうでもいい」と割り切れる人なら、他人から後ろ指を差される筋合いがない。そもそも自分たちが多数派になった時点で自分たちの選民意識に意味がなくなるのではないのか?
今は本田さんがこの本を書いた頃よりはるかに「オタク」は一般的な存在になっている。一般的とは、否定的な表現をすれば「凡庸」だ。今時、腐女子を含めた「オタク」アピールをしても「没個性」そのものに見える。かつて本田さんが熱心に非難した「恋愛資本主義」が「萌え資本主義」に変わっただけだ。そもそも本田さんらオタクが「オタク」たり得るのは、資本主義と物質主義の恩恵あってのものではないのか?
この本のオリジナル版が世に出て十年以上経つ。そして、肝心の本田さん自身は2012年以降はメディアへの露出もなく、ブログや個人サイトの更新もない。なぜ?
もしかすると、本田さんは実生活でパートナーを得て幸せな暮らしをしているのかもしれない。私はそんな「好意的な」想像をしてしまう。しかし、かつて専業主婦バッシングでヒンシュクを買った某女性ライターに対してはそんな想像はしたくない。なぜなら、かの御仁の専業主婦バッシングとは、当時専業主婦として健在だった私の母親を踏みつけられたようで不愉快だったからだ。そして本田さんは、恋愛以前に家族愛に飢えていたようだ。もし仮にこの人が「家族運」に恵まれていたならば、この本で描かれるルサンチマンの塊にならずに済んだだろう。
この本の中での本田さんの身の上話が全て事実ならば、根強い女性不信に陥るのは当然だと思う。しかし、本田さんはご自身を「キモメン」だと定義しているが、中村うさぎ氏は「容貌のみでブスと呼ばれる女は実は少なく、性格が嫌われて初めてブスと罵られるようだ」と書いている。多分、本田さんは外見だけで女性たちから「キモメン」扱いされていたのではない。それまでの生育環境によって人間性をねじ曲げられたかわいそうな人なのだ(あくまでも身の上話が全て事実ならば、だが)。
【Styx - Mr. Roboto (Official Video)】
どうもありがとう、ミスター・ロボット。また逢う日まで。