【書評】肉声の思想ー法然述『百四十五箇条問答』評ー
【書評】筆者 : 菅 隆善 2024年9月27日
法然の二つのすがた
歴史上の人物としての法然の活動には、大きく分けて二つの面を見出すことができる。ひとつめは『選択本願念仏集』にみられるような、浄土思想の体系化という大きな仕事を成しとげた理論家としての法然である。ここで彼は「智慧第一」と呼ばれるほど優秀だった、天台学僧時代の面影をみせている。もうひとつは『百四十五箇条問答』や『一枚起請文』などにあらわれる、個としての、あるいは〈肉声〉によって語りかけてくる法然である。『問答』は、法然と人々との直接的対話、あるいは書簡を通じたやり取りなどで発された彼の語録という体裁をとっている。『一枚起請文』は、最晩年の法然が遺書のつもりで綴った小文である。これらは易しい言葉で語られており、内容も浄土仏教のエッセンス的なものになっている。
どちらも同じ法然という人物の一面であるものの、前者と後者ではずいぶんと受ける印象が異なる。おそらく浄土宗門では前者の法然が築いた体系的教理を教学として戴きつつ、後者の法然からは教えそのものというよりもむしろその特殊な情況においての彼の「人柄」のあたたかさを強調することで、自分たちの宗祖の理想像を作り上げている。しかし私はあえて、後者の法然から浄土思想の「原像」を取り出してみたいと思う。それはいうなれば〈体系〉への抵抗であり、〈肉声〉の思想の価値の再発掘であるといえるだろう。
法然の〈肉声〉の思想
さて、法然は『百四十五箇条問答』のなかで、幾人もの名もなき庶民たちの質問に応えるかたちで、言葉を交わしている。その中には思想史的に重要なものがいくつもある。いまここに数行を抜き出してみてみよう。
一念多念の議論は浄土宗門において非常に重要な問題である。すなわち、称名念仏(南無阿弥陀仏)を一遍でも称えれば死後に理想世界(浄土)への移行(往生)を果たすことができるのか、それとも百遍千遍とある程度の時間的労力をかけて「修行」としての意味を持たせないといけないのかという問いだ。法然はここではっきりと、「一念でも往生します」と述べている。このやりとりに代表されるように、『問答』の法然は、いうなれば宗教的な細かい規律や「こだわり」に近いものを極力切除して、本質的な信仰にかかわる部分だけを抽出しようと試みているように思われる。
これもそういう余計なこだわりを捨てろといった、実にきっぷのいいやり取りである。しかしこの応答は一歩間違うと反仏教的、反倫理的になってしまう危うさも兼ね備えている。法然が全問答において主軸をおいている考え方といえるのは、「念仏」というものがもつある種の絶対性によって、あらゆる既成的な〈倫理〉を超越することができるというものだと思う。
ここでついに念仏は主体的行為の枠組みを超えて絶対的な概念への深化している。もはや実際に唱えることもなく「南無阿弥陀仏」を「聞く」だけでも往生できるというならば、念仏は捉えようのない絶対的な概念そのものとしかいいようがない。ちなみに、ここでいわれている「糸」というのは、古典的浄土教において信者は臨終のときに仏が「お迎え」にきて垂らされた五色の糸を掴むことで、浄土に往生することができるという教理に由来するものである。私が思うにこの聞き手はもしかしたら手がない、あるいは目が見えない、あるいは口がきけない、そういう現代でいう身体障がい者ではないだろうか。それで古典的浄土教では自分のような者が排除されている、そういう危機意識というか心配を抱えて、法然にその思いをぶつけてみたのではないだろうか。そんな想像をすると、法然の応えはこの聞き手に大きな安心をもたらしたことが推察できる。そもそもそういう物質的幻想の議論というか、古典的浄土教の教理は法然にとっては無意味なものであるのだ。法然が求めた念仏、浄土は絶対的概念としての位相のものであり、〈肉声〉を通じて法然はその思想をはっきりと示している。
法然は世俗的な迷信と、仏教を明確に分別する。それは自ずと迷信に悩む人々に対する、解放の言葉になる。
仏教的にどうしても肯定するのが難しい問題と直面したとき、法然の言葉は少しレトリカルになる。しかしそれは決して「誤魔化し」ではなく、法然のなんとか庶民を心配や疑念から解放しようという気持ちの表れとしてみるべきである。これはまさに「人柄」であるが、ここに〈肉声〉の思想を見出すならば絶対的概念としての念仏においては、相対世界の倫理(この世のならい)は超越されるということが、やはり重要であるように思われる。
〈体系〉の欺瞞と〈肉声〉の迫力
このように、全編を通じてリアリティのあるやりとりで埋め尽くされている『問答』の書物としての特徴を挙げるならば、あたたかい〈肉声〉の思想があらわれていることと、一つ一つのテーマがバラバラであり、〈体系〉性を見出すことができないということであると思う。この〈体系〉性のなさというのが原因で、『選択集』に比べてどうもこの『問答』の地位は低く評価されているような気がするのだ。
思想はその全方向的な拡張の過程で自ずから〈体系〉性への志向を帯びてくる。それは一見すると普遍性の獲得のための必要条件であるように見える。しかし思想の〈体系〉的な表出がもたらすのは、たいてい不必要なほどの煩瑣さや難解さでしかない。それは歴史上のあらゆる哲学や宗教神学に例を見ることができる。確かに〈体系〉は思想の学術的な「雰囲気」や権威や崇高さといった、実にくだらない価値を作り出すかもしれない。けれど、それはつまるところ思想の素朴な啓蒙的価値を失わせることにしかならないのである。なぜなら大衆が本当に要求するのは学術的権威でも崇高さでもなく、常に平易なもの、自らの生活と直に結びつくものであるからだ。それは学者からすれば、まず快いことではないだろうし、自分たちの思想こそが真に高邁であるといって、大衆の無理解を嘆くかもしれない。しかし大衆に浸透していないその高邁な思想なるものが、本当に普遍性をもっているとは到底いえないと私は思う。
こういった〈体系〉がもつ欺瞞性というものを、法然の言説に当てはめてみるならば、浄土思想の本質的価値は『選択集』の法然よりも、むしろ『問答』に顔を覗かせる〈肉声〉の法然の中にこそあるといえるのではないだろうか。大衆と対峙し、大衆の疑念になんとか応えようとするかたちで発される、法然の原〈体系〉的な、あるいは非〈体系〉的な教説に、私たちは念仏普及への並々ならぬ情熱から迸っている〈肉声〉の思想の力を感じるのだ。今まさに目の前に法然がいるような、そんな迫力をこの書物からは受け取ることができる。だからこそ、浄土宗門の徒でなくともこの書を一個の生きた思想書として読むことで、誰もがおそらく何かしら得るところがあるはずだと、私は強く強くそう言いたいのである。
書評された本
中央公論新社 1996年 『日本の名著 法然』
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