愛すべきストーカー男の偏愛ひとり語り 第三話 (全六話)
愛すべきストーカー男の偏愛ひとり語り
三
目が痛くなるほどの青空から打って変わって、まだ昼の三時前だというのにこの町の空は赤い。無風。
昔ながらの町並みは、電線が全て地中に埋まっていて、古い蔵造りのお店の景観を損なわないようになっている。
グミショックで足取りが重い僕を気にも留めず、葉流は蔵の重厚な瓦屋根付近に目を奪われている。僕もつられて漆黒の瓦屋根を見上げると、真っ赤な空に紫色の雲が重たそうに張り付いているのを見た。何だか葉流の描く絵に似ている。抜け出た魂が頭上でふらふらしているような、からだの重心がわからない感覚に襲われた。葉流はあっという間にくるくるとだいぶ先を跳ねている。
「おーい、待てよ」
店の前で芋饅頭を食べている人々が、一斉に僕を見る。ゾクッとした。一所懸命歩いているのに、なかなか葉流に追いつかない。饅頭を蒸す蒸気の向こうで、店番のおばちゃんの平べったい顔がゆらゆらしてる。
一緒に食べ歩きしようと思っていたのに、僕が連れて来てやったのに、この僕は置いてきぼりかよ。葉流は軒を連ねるご当地スイーツグルメに目もくれず、すばしっこくジグザグと移動していく。
骨董屋の前を通りかかると、店主の持った柄杓から僕の足元に向けて水が飛んできた。おわっ、と飛び退く。こんな人混みで日中水撒き? 濡れるところだったじゃないか。店主を睨もうとしたら、既に店のガラス戸は閉まり、中は暗い。何だよ、これ。
町並みマジックなのか、現在軸と少しずれが生じてでもいるのかとまわりを見回しても、みんなスマホを手に写真を撮ったり、電子決済してる人さえいる。特に変わったところは……赤い空と葉流のすばしっこさくらいだ。いや、これは重要なところだ。
ぼくの視覚は美味しそうな菓子店の隙間に、ねずみくらいの小さな狐? を捉えた。付近に触手のある黒いもやもやの塊が蠢いた気がした。一つや二つじゃない。何度か瞬きをして見ると、ちび狐はただの置き物だし、黒い塊は何かの影だったのだろう。僕はそういうのは信じたくないタイプだから。
重たい足で葉流を追いかけた。全く一緒に来た意味がないではないか。
葉流はこの先の稲荷神社の鳥居をくぐったみたいだ。彼女が恭しく参っている間、僕は得体の知れない膜に囲まれているような気分で赤い空を見ていた。先程から紫の雲の形が変わらない。完璧な無風なのに、鳥居の前の幟だけはためいている。葉流はこの空気の異様さに気づいている? なぜか訊けなかった。
境内にいる人々は、どれも猫背ですばしっこくて、墨で染めたように黒々した髪と大きなマスクをつけていた。葉流は巻物を咥えた方のお狐さまに、鼻先がくっつくほど近づいて爪先立ちをしている。
ちなみに僕は、二つ目の鳥居をくぐらなかった。鳥居の上の鴉が鏡面仕立ての眼球を光らせたから。
お参りを終えた葉流を待って神社から通りに戻る。
「なんか食べませんか? 芋アイスとか」
大好きな芋にもアイスにも全く興味を示さない様子で、彼女は少し先の小綺麗な雑貨屋の前に足を止めている。追いつけ。僕はすれ違う人と肩が触れるたびに、不快な痺れを感じながら歩を速めた。脂汗が出て息切れがする。風は無い。
僕など眼中にない葉流の足の速さ。なんでなんだよ。もっと僕を労われよ。
店頭の狐面をじっと見つめている葉流。
「おい、僕を置いていくなよ。息切れがしてるよ」
「……」
「どうしたの? お面が気になるのかい」
「連れて帰る」
「いや、待て。待って、葉流」
「……」
「覚えてるか訊きたくはないんだけどね、僕、昨日誕生日だったんだよ。だから、っていうのも脈絡ないんだけど、葉流に何かプレゼントさせてよ」
「脈絡ない」実に可愛くない答えだ。
「はは、脈絡ないよな、自分の誕生日に葉流にプレゼントって……いや、だからさ、お面じゃなくてさ、お店の中見てみなよ。パワーストーンのアクセサリーが置いてあるよ。これとかピンクで葉流っぽいじゃない。ローズクォーツ、トルマリン……」
「……」
「葉流はピアスとかブレスレットとかアンクレットするだろ?」
「しない。いらない」
嘘つけ、今だって変な蜘蛛のピアス付けてるじゃないか。僕が蜘蛛を嫌いなの知ってて。足首には変な緑の紐巻いてるし。
けれども葉流は、結局狐面を自ら電子決済でお買い上げして、僕にプレゼントをさせてくれなかった。
レジカウンターには、真っ赤な金魚が派手な尾鰭を翻しながら、金魚鉢の中でゆらゆら歪なかたちを変化させていた。葉流は愛おしそうに目を細めている。舌なめずりをして見えたのは僕の勘違いだろう。
若い店員は驚くほど愛想が良く、猫耳ならぬ狐耳の帽子を被っていた。あれは本当に帽子だったんだろうか……疑わしいが深く考えないことにする。くどいが、僕はそういうの信じたくないタイプなんだ。
彼は店の奥から同じような狐面を幾つか出して来て、好きなお顔をどうぞ、と葉流に選ばせた。全て手作りだから、いちいち顔が違うのだ。けれど、葉流は店頭の面が気に入ったのだった。面から微かに梔子の香りがした。
手に入れた狐面にご満悦な葉流。狐みたいに目を細め、にぃっと笑う。そしてまさかと思ったが、面を被って歩き出した。あんな小さい穴で視界は大丈夫なのか? いや、問題はそこじゃない。お願いだから面を外して歩いてくれませんか。
「ふん」
そう言いながらも意外に素直に受け入れた。
葉流は、通りから逸れた路地にひょいと入り込んだ。人とすれ違う時譲り合うほどの狭い路地に、レトロな駄菓子屋が軒を連ねている。どの店も色採り採りの大飴玉や麩菓子がぎうぎうに並べてある。店先でおっちゃんが、堂々と煙草をふかしながら碁を並べている。路地の向こうから子供の元気な歌声が……
「おっぢゃうさん、おっはいんなさいっ」
「あっりがたうっ」葉流の声。
嘘だろ! 葉流がお面を頭に乗せたまま、子供たちのなわとびに参加している。これは白昼夢だ。僕は夢を見ているんだ。なんだって夢でこんなところまで……梔子の香りが鼻をつく。
自慢じゃないが、生まれてこのかた、僕は夢の鮮明な記憶なんてないんだ。でも、辻褄がずれてることや葉流の動き、それに空が……
傍らでカシカシ音がしている。振り向くと葉流が、一メートルはあろう巨大麩菓子を戦闘モードでかじっている。
「買ったの? いつ?」
葉流は口をもぐもぐしながら、向かいの駄菓子屋を指差した。店のおばちゃんが愛想よく観光用の巨大麩菓子を他の客にも売っていた。まわりには、なわとびの子供たちも碁を並べるおっちゃんもいない。
数件先から甘めの香ばしい香り。揚げたての芋けんぴを売っている。もう夢だか何だか考えるのが面倒くさくなって、僕は食べ歩き用の芋けんぴを買った。ほんのりまだ温かく、既製のものより細くて長い。サービスして溢れそうに入れてくれたお姉さんは、眉間に絆創膏を貼っている以外は、ごくふつうの人のようで安心した。葉流に勧めると、ためらうことなくぽりぽり口に運ぶ。
鐘の音だ。今度は空耳じゃない。ここにいる人はみんな聴いている、午後四時を告げるこの地域の時の鐘の音だ。
「終わり」葉流が言う。
「……帰ろうっていうことね」
そう解釈した。僕はまるで楽しんでいないが……
さっきは気づかなかったイマドキのカフェで、トールサイズのレモネードソーダを頼む。イマドキの揺れるピアスを片耳にした若者がソーダを作ってる間、葉流が芋けんぴを一本床に落とした。表情ひとつ変えずに、拾ったそれで僕の口をつつく。
え? これって今落としたやつだよね。口を開けないでいると、葉流は頭の狐面を被った。
わかった。食べる、食べます。僕は土足の床に落ちた芋けんぴを困惑的笑顔で口に入れた。葉流は面を外し、目を細め、にぃっと笑った。
「お待たせしました」
ピアスの若者からソーダを受け取って、来た道を戻る。
時代のついた駄菓子屋の間には、実際イマドキの店が結構あったし、道幅もそれほど狭くはなかった。この視覚の不安定さは何だろう。
メイン通りに戻る一本道。なのに、うまく戻れない。
葉流と違って僕は方向音痴ではないし、むしろ勘は冴えてるほうだ。なのに、どこから入り込んだのか、墓、墓、墓。見渡す限り墓だ。いや、お墓だ。しかも十字架のお墓だ。赤い空まで十字架が果てしなく続いている。何だよ、これ。
ポチャン。葉流は、足元の小さな池に何かをわざと落とした。ゆらゆらと泳ぐ鯉に似た魚が突然獰猛な生き物になってバシャバシャと群がった。
「何落としたの?」
「魂の抜け殻の粉が詰まった瓶。ふたを開けて落としてあげたの。この世に戻れるって、ほら、魚がよろこんでる」
レンズのように深さを惑わせる摺鉢状の池を覗き込んだ時、あの微かな鐘の音が聴こえ、踏切の警報機の音と重なる。この辺りに踏切なんてあったのか。
驚くほど大きな警笛に心臓が飛び上がると、僕の目の前を空の赤と同じ色の列車がゆっくりと通り過ぎて行く。
嘘だろ! 葉流が乗ってる。あれは髪の長かった頃の僕だけの葉流だ。待って! 肝心な時に足が動かない。なんでこんなに重たいんだ。列車は徐々に色を失ってモノクロになり、遠近法の消失点に、音とともに吸い込まれてしまった。
無音……僕の脈の音だけが耳の後ろに寄せてくる。
一体何を見たんだ。明らかにあれは葉流だった。僕が信じたくないタイプなんてことは、最早関係ないのかも。
後ろから何かに腰を小突かれて我に返る。葉流が、巨大麩菓子の先で僕をつついたのだ。葉流……君は本当に葉流なのか。
次第にがやがやと雑多な音が戻ってきて、気づくとメインストリートの古い重厚な蔵の前にいた。
白昼夢に惑わされるなど僕にあるまじきだ。けれども、手にはさっきのレモネードソーダと芋けんぴが握られているし、葉流は狐面を頭に乗せ、巨大麩菓子を金剛杵のように持って仁王立ちしている。夢ではない。
混乱から逃げるように思考を止めて、帰路につくことにした。目の前をパトカーが通り過ぎた。
第四話に続く