NHKの朝ドラになりそうな人間ドラマ -画伯 太田洋愛-

満洲の大地と画伯太田洋愛

嶋津隆文

太田洋愛展
(平成23年国立科学博物館)

昭和4年、満洲の奉天駅に立つ

「昭和4年、満州放浪の旅の第一歩を、凍てつく奉天駅頭(現東北地区瀋陽)に印したのは、酷寒一月も末の頃のことであった。私の所持品といえるものは、油絵具箱とイーゼル、スケッチブックとわずかばかりの着替えだけであった」。太田洋愛は、自伝といえる自著『さくら』(日本書籍)でこう書き出している。
「その頃、奉天に満州教育専門学校という満鉄経営で、全寮制度、全給費のユニークな三年制の学校があることを知り、これを受験するためと父をあざむき、いくばくかの小遣い銭を懐中に「支那には四億の民が待つ」との放浪の唄にひかれて、未知の異国の地を訪れる冒険心に胸を弾ませていた」(同上)。
 満洲は往時、日本人にとっては希望の新天地であった。洋愛は本名を保という。明治43(1910)年に愛知県渥美郡田原町で、太田與(あたえ)とこずえの次男として生まれた。韓国併合、大逆事件の年であった。地元の成章中学を卒業するや18歳の時、満洲に向かったのである。  
そしてこの満洲で、洋愛は綺羅星のごとき人々と次々と出会い、未来に無限の希望を抱く一方、生身を裂かれるような絶望を味わうことになる。

太田洋愛(自宅アトリエ)

“はす博士”大賀一郎に師事

「入学試験は、まず口頭試問から始まったが、「君はなぜ満州のこの学校を選んだのかね」と質問され、「絵をかくためです」と答えると、先生方は不思議な顔をして、「ここでは絵はかかせない」という。失望した私は試験の途中で座を立ってしまった。満州の知人をあちこち訪ねたが、みな「旅費をやるから帰れ」という。失意のどん底にいたとき、私が受験したばかりの教育専門学校の植物生理学の教授が植物画の絵描きを探している、と耳にした。暗やみで光を得た思いで飛んでいったのだが、その教授こそは後年、“はす博士”として世に知られた故大賀一郎先生であったのである。
中学の先生(注:画家細井文次郎)に油絵の手ほどきを受けただけの私に、植物画のような細密画が描けるはずがない。そのことを大賀先生に話すと、先生は欧米諸国の一流の図鑑や図譜をもってきて、「これを先生にしなさい」といわれる。それらをながめては、連日、ただがむしゃらに筆を動かした。」(日経新聞「文化欄」昭和41年12月7日号)。
緊張のままに書きあげた洋愛の図絵をしばし見ていた大賀は、「明日から来なさい、宿は?」と言葉を発した。瞬時に絵の才能を見抜いたのである。洋愛は、旅の宿を引き払って、翌日から奉天葵町にあった大賀の私邸に住み込むことになる。植物画家太田洋愛のスタートはこうして始まった。
大賀一郎は、南満州鉄道中央研究所(満鉄調査部)の植物班主任として渡満しており、戦後は関東学院大教授になる。昭和26年に千葉市の東大農場の落合遺跡で、今から2千年以上前の古代ハスの実を発見する。このハスの実が開花し、大賀ハスと名付けられた。この開花は米国の写真報道誌『ライフ』でも報じられ、大賀の名が内外に広まったことで有名だ。

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