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"私の物語だ"と思える本と出逢った時

本を読んだとき、「共感」という言葉を超越して、もはやなにかに溶け込んでいくかのような感覚に陥ったことはあるだろうか。

「四月になれば彼女は」という小説を初めて読んだのは5年前の夏だった。

大好きな先輩の最近読んだ良かった本という事前情報だけで手に取り、ただ、読み始めたらとまらなかった。

"これは私の物語だ"と思って、心が揺れた。

2024年3月22日から実写版映画が公開されたとのことで、まだ映画は鑑賞できていないけれど、この物語への想いを綴りたい。

※大きなネタバレにならないよう物語の内容とは離れたエッセイになっておりますが、気になる方は是非、先に原作や映画に触れてみてください…!


私はしばらくの間、「好き」という感情がよく分からなかった。

分からないというのは、自分の中に存在しないという意味ではなくて、恋愛的な好き、友情的な好き、というような種類分けが分からなかった。
だから、当たり前かのようにはっきりとカテゴライズされている世の中のコンテンツや周りの人達の華麗なおしゃべりが少し怖かった。

上記の疑問が前提にありつつ、大学時代、強いて種類を分けるならば"恋愛関係"において、想いを寄せていた人がいた。

一般的には、恋愛的な好意であれば、"どう好きになってもらうか、どうやって両想いになるか"というようなイベントが発生する。

もちろん相手に気持ちを伝えたかった。でも不思議と、その相手が自分を好きになってほしいという願望を抱いたことはなく、だからこそ好きの種類分けが不思議で怖かった。
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ここまでの振り返りは、私自身の《愛し方》の話である。私が目に見えない種類分けに囚われつつも、誰かを愛そうとしている過程である。

でも愛について語る時、当たり前かもしれないけれど、それは、双方向での会話でなければならない。

《愛し方》だけじゃなく、《愛され方》のことも考えられるべきだと気づかせてくれたのは、「四月になれば彼女は」の物語だった。

なんとなく自分は、生まれ持った性格や、幼少期の生育環境での振る舞いなどの影響で、無意識に愛を受け取るのにあまりにも臆病である一方で、あまりにも無邪気に愛を伝えていた気がする。

愛を受け取ることに臆病すぎると、こちらからどんなに愛を渡しているつもりでも、実は一方通行になってしまう。そして何故かそのことにリアルタイムでは気が付かない。

愛される覚悟を自分に赦すことではじめて、こちらからの愛を渡すことができる。「四月になれば彼女は」の物語は、そんなことを私に教えてくれた。

川村元気さんの文章はどれも、場面の情景や登場人物の声音までもが、ありありと想像できる気がする。久しぶりに原作を読み返して、劇場にも足を運んでみたいと思う。



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