目玉焼きではなくヨーグルトを食べる自由はあったのか
目覚ましの音が静寂を破り私を夢の世界から現実世界へと呼び戻す。
私はまぶたの重みに耐えながらも身体の状態を起こし右手を伸ばしてスマホを手に取りアラームを切る。
ベッドから抜け出しコップを手に取り水を飲む。飲み込んだ冷たい水が乾いた身体中を駆け巡り潤していく。
ぐぅーっとお腹が私に何かを訴えてくる。
抵抗する理由もないので冷蔵庫のトビラを開き朝食に出来そうな食材を探す。
何か特定のものを食べたいという強い感情はなかったので朝といえばの卵料理にすることにした。
どうして朝といえばのたまごなのだろうか。小さい頃から朝に卵焼き、目玉焼き、卵かけご飯などのたまご料理を食べる機会が多かったから今回もたまごを選んだのだろうか。
フライパンを少しだけ熱くしたあとにサラダ油をフライパンに流し込む。
パチパチと音をたてながら油がフライパンの上で踊っている。その見事なダンスにほんの一瞬見惚れてしまった。
急いでたまごを手に取りコンコンと2回だけ打ちつけると、たまごにヒビが入る。そのヒビから小さな太陽のような黄身が顔を出す。
フライパンの上に着陸した時には透明だったはずの白身がその名の通りに白へと変化していく様を見てわずかながら時の流れを感じる。
お皿に綺麗に盛り付け、まだ完全には固まっていない黄身を崩さないように慎重に歩きながらリビングへと向かう。
テレビのボタンを押すとハンバーガーのコマーシャルが流れている。どうやら期間限定のメニューが登場しているらしい。
美味しそうに食べる役者さん、そして購入を煽ってくるコマーシャルにまんまと騙され私はお昼にはハンバーガーを食べようと思った。
そのコマーシャルを見終わった頃にはもう朝食を食べ終わっていた。目玉焼きを食べ終えるのに30秒も要らなかったようだ。
目的を果たしたお腹は静かになったので今度は家事をする時間だ。
溜まっている洗濯物を洗濯機に押し込みスタートボタンを押す。洗濯が終わるのを待っている間に前日に干していた洗濯物を取り込んで丁寧に畳む。洗濯機から洗濯が終わったとの報告はまだない。
その間に、ずっと真夜中でいいのに。のアルバム「沈香学」を流しながら食器を洗う。三曲目の「猫リセット」が終わるのと同時に食器洗いを終える。
八曲目の「袖のキルト」のサビが流れる頃、軽快なリズムと共に洗濯が終わったことを告げられる。
シワがつかないように気をつけながら洗濯物を干し終える。ソファに座り読みかけの小説「一九八四年」を再び読み始める。
物語もクライマックスに差し掛かったところでお腹が空いてきた。
朝ごはんを食べている時に見たコマーシャルがまだ忘れられないのでハンバーガーを買いに行くことにした。
散歩がてら歩いてハンバーガー店へと向かい期間限定の品を注文する。家に帰り、むしゃむしゃとハンバーガーを食べながらふと考える。
今私がハンバーガーを食べているのは私の自由意志に基づいて行われた行為なのか、それともハンバーガー会社のコマーシャルの策略に上手くハマったため私の自由意志とは違う力が働いていたのか。
そんなことを考えながら外に出ているついでに夕飯の買い物を済ます。
この場合は私は自由意志に基づいて買い物を行っているのだろうか、それとも自由意志とは別の力が働いているのだろうか。私が生まれた時から今日のこの時間に買い物に行くことは決められていたのだろうか。
買い物を強制されたわけではない。そう考えると自由意志に基づいているのかもしれない。私は買い物をしないという選択肢を取ることもできた。
本当に買い物をしないという選択肢を取ることができたのだろうか。選択肢の一部にあったとはいえ証明ができない。今日の一時半、ハンバーガーを食べた後に戻って買い物をしないで家に帰ることができれば私は自由に選択することが可能だと言えるのかもしれない。
しかし私は過去に戻ることはできない。複数の選択肢が用意されていると思い込んでいるだけで実際は単一の選択肢しか選び取れないのではないだろうか。
自由意志に基づいているとかいないとか。
この疑問に答えは出ないのかもしれない。
自分が自由に選択をしていたと思っていてもその選択肢は視覚、聴覚、嗅覚、心理などの要因によって操作されているかもしれない。ハンバーガー店のコマーシャルがいい例だ。
見えない力によって自由意志が操られていたら?
見えない力ならば私には分からない。私は選択肢がありその中から自分がどれかひとつを選ぶ権利があるならばそれは自由意志に基づいた選択なのだと思いこむこともできる。
今朝私が卵料理にしたこともお昼にハンバーガーを食べたことも午後に夕飯の買い出しに行ったことも全部私の自由意志に基づいていた。
他に選択肢はあったのだから。
朝ヨーグルトを食べることも昼にチャーハンを食べることも買い物に行かないという選択肢も存在していた。
その選択肢の中から私はひとつを選び出すことでその決断に責任を持つことができる。
そう考えると私は自由だと思い込むことはできるかもしれない。複数の選択肢が用意されていて、たとえひとつの選択肢を選ぶことを何かの力によって強制されているとしても、私たちが自分の力で選択したと思い込むことができれば私たちは自由だと思える。
自由って何だろうね。
意志と行動を結びつけられた時に私たちは自由を感じるのだろうか。
食べたいと思った(意志)ものを食べることができたり(行動)、着たいと思った服を着ることができたり、望んだヘアスタイルにできたりした時に自由を感じるのだろうか。
しかしそこには制限がある。厳格な法律だけでなく、倫理観だったり、風習だったりが存在している。
私たちは一定の不自由を受け入れなければならない時があるらしい。
意志と行動が一致した時に自由を感じるならばおみくじの場合はどうだろうか。大吉を引きたいと思って大吉を引けたら私たちは自由と言えるのだろうか。それとも単に運の問題なのだろうか。
では運と自由の違いは何だろう。私が自由に選んだと思っている選択肢でもたまたまの出来事に過ぎないことだってあるかもしれない。
今日の朝食に数あるメニューの中から目玉焼きを選んだことは自由ではなく、たまたま運による選択だったという考えもできる。
と、ここまで考えて手がとまる。
そろそろ夕飯を作る時間だ。今日はカレーの予定だが、それは私が自由に選択した結果なのか、元々定められていたものなのか、たまたま偶然による産物なのか。
あなたは自由ですか?
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